れていたが、彼は平気で眠っていると、夜の四更《しこう》(午前一時―三時)とおぼしき頃に、黄衣の人が現われて外から呼んだ。
「幼輿《ようよ》、戸をあけろ」
 幼輿というのは彼の字《あざな》である。こいつ化け物だと思ったが、彼は恐れずに答えた。
「戸をあけるのは面倒だ。用があるなら窓から手を出せ」
 言うかと思うと、外の人は窓から長い腕を突っ込んだので、彼は直ぐにその腕を引っ掴んで、力任せにぐいぐい引き摺り込もうとした。外では引き込まれまいとする。引きつ引かれつするうちに、その腕は脱けて彼の手に残った。外の人はそのまま立ち去ったらしい。夜が明けてみると、その腕は大きい鹿の前足であった。
 窓の外には血が流れている。その血の痕《あと》をたどってゆくと、果たして一頭の大きい鹿が傷ついて仆《たお》れていた。それを殺して以来、この家にふたたび妖怪の噂を聞かなくなった。

   羽衣

 予章|新喩《しんゆ》県のある男が田畑へ出ると、田のなかに六、七人の女を見た。どの女もみな鳥のような羽衣《はごろも》を着ているのである。不思議に思ってそっと這いよると、あたかもその一人が羽衣を解《と》いたので、彼は急にそれを奪い取った。つづいて他の女どもの衣をも奪い取ろうとすると、かれらはみな鳥に化して飛び去った。
 羽衣を奪われた一人だけは逃げ去ることが出来なかったので、男は連れ帰って自分の妻にした。そうして、夫婦のあいだに三人の娘を儲《もう》けた。
 娘たちがだんだん生長の後、母はかれらにそっと訊いた。
「わたしの羽衣はどこに隠してあるか、おまえ達は知らないかえ」
「知りません」
「それではお父《とっ》さんに訊《き》いておくれよ」
 母に頼まれて、娘たちは何げなく父にたずねると、母の入れ知恵とは知らないで、父は正直に打ちあけた。
「実は積み稲の下に隠してある」
 それが娘の口から洩《も》らされたので、母は羽衣のありかを知った。
 彼女はそれを身につけて飛び去ったが、再び娘たちを迎いに来て、三人の娘も共に飛び去ってしまった。

   狸老爺《たぬきおやじ》

 晋《しん》の時、呉興《ごこう》の農夫が二人の息子を持っていた。その息子兄弟が田を耕《たがや》していると、突然に父があらわれて来て、子細《しさい》も無しに兄弟を叱《しか》り散らすばかりか、果ては追い撃とうとするので、兄弟は逃げ帰って母に訴え
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