のか、それともわたくしを慕って来たのか、なにしろ捨てるのも可哀そうだと思いまして、懐に忍ばせたり、袂に入れたりして、木曾路までは一緒に連れて来ましたが、伊平さんの家に落ちつくようになりました時に、因果をふくめて放してやりました。鼠はそれぎり姿を見せませんので、どこかの縁の下へでも巣を食ってしまったものと思っていますと、旦那さまと御一緒に江戸へ帰る途中、碓氷峠をくだって坂本の宿に泊りますと、その晩、どこから付いて来たのか、その鼠がわたくしの袂のなかにはいっているのを見つけて、実にびっくり致しました。それほど自分に馴染んでいて、こうしてここまで付いて来たかと思うと、どうも捨てる気にならないので、そっと袂に入れて来ました。それを梅次郎さんや義助さんに見付けられて、ずいぶん困ったこともありましたが……。まあ、旦那さまには隠して置いてもらうことにして、無事に江戸まで帰ってまいりますと、この頃になってまたどこからか出て来まして、時々にわたくしの部屋へも姿をみせます。しかも、ゆうべはわたくしの夢に、その鼠が枕もとへ忍んで来まして、袖をくわえてどこへか引っ張っていこうとするらしいのです。こっちが行くまいとしても、相手は無理にくわえていこうとする。同じような夢を幾たびも繰返して、わたくしもがっかりしてしまいました。そのせいか、今朝はあたまが重くって、何をたべる気もなしにぼんやりしていますと、仲働きと女中の話し声がきこえまして……。」
 あまりに気分が悪いので、お元は台所へ水を飲みにゆくと、女中部屋で仲働きのお国が女中お芳に何か小声で話しかけている。鼠という言葉が耳について、お元はそっと立聞きすると、ゆうべはあの鼠がおかみさんの蚊帳のなかへはいり込んだこと、お元の枕もとにも坐っていたこと、それらをお国が不思議そうにささやいているのであった。
 もう仕方がないとお元も覚悟した。娘に化けて近江屋の家督を相続する――その大願成就はおぼつかない。うかうかしていると化けの皮を剥がれて、騙《かた》りの罪に問われるかも知れない。いっそ今のうちにも何もかも白状して、七兵衛夫婦に自分の罪を詫びて、早々にここを立去るのほかはないと、かれは思い切りよく覚悟したのである。
「重々憎い奴と、定めしお腹も立ちましょうが、どうぞ御勘弁くださいまして、きょうお暇をいただきとうございます。」と、お元はまた泣いた。
 その話を聞いているあいだに、七兵衛もいろいろ考えた。憎いとはいうものの、欺されたのは自分の不覚である。当人の望み通りに、早々追い出してしまえば子細はないのであるが、親類の手前、世間の手前、奉公人の手前、それを何と披露していいか。正直にいえば、まったくお笑い草である。近江屋七兵衛はよくよくの馬鹿者であると、自分の恥を内外にさらさなければならない。その恥がそれからそれへと広まると、近江屋の暖簾《のれん》も瑕が付く。それらのことを考えると、七兵衛も思案にあぐんだ。
 女房のお此も夫とおなじように考えた。殊にお此は女であるだけに、自分の前に泣いて詫びているお元のすがたを見ると、またなんだか可哀そうにもなって来た。たとい偽者であるにもせよ、けさまでわが子と思っていたお元を、このまま直ぐに追い出すに忍びないような弱い気にもなった。
「まあ、お待ちなさいよ」と、お此はお元をなだめるように言った。「そう事が判れば、わたし達のほうにも又なんとか考えようがある。ともかくも今すぐに出て行くのはよくない。もうちっとの間、知らん顔をしていておくれよ。」
「それがいい。」と、七兵衛も言った。「いずれ何とか処置を付けるから、もうちっと落ちついていてくれ。私のほうでも自分の暖簾にかかわることだから、決してこれを表沙汰にして、おまえを騙《かた》りの罪に落すようなことはしない。まあ安心して待っていてくれ。」
 夫婦からいろいろに説得されて、お元もおとなしく承知した。
「それでは何分よろしく願います。」
 自分の部屋へ立去るお元のうしろ姿を見送って、深い溜息が夫婦の口を洩れた。いかにお此が弱い気になったからといって、すでに偽者の正体があらわれた以上、それをわが子として養って置くことは出来ない。さりとて、その事実をありのままに世間へ発表することも出来ない。しょせんはお元に相当の手切金をあたえて、人知れずにこの家を立ちのかせ、表向きは家出と披露するのが一番無事であるらしい。勿論それも外聞にかかわることではあるが、偽者と知らずに連れ込んだというよりはましである。一旦かどわかされた娘をようよう連れ戻して来たところ、その悪者どもが付けて来て、再びかどわかして行ったのであろうということにすれば、こちらに油断の越度があったにもせよ、世間からは気の毒だと思われないこともない。ともかくも大きな恥をさらさないで済みそうである
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