……。お家《うち》の娘ではございません。」と、お元は声を沈ませて言った。
夫婦は顔を見あわせた。取分けて七兵衛は自分の耳を疑うほどに驚かされた。
「家の娘ではない……。どうしてそんなことを言うのだ。」
「わたくしは江戸の本所で生れまして、小さい時から両親と一緒に近在の祭や縁日をまわっておりました。お糸というのがやはり私の本名でございます。わたくし共の一座には蛇つかいもおりました。鶏娘という因果物もおりました。わたくしは鼠を使うのでございました。芝居でする金閣寺の雪姫、あの芝居の真似事をいたしまして、わたくしがお姫様の姿で桜の木にくくり付けられて、足の爪先《つまさき》で鼠をかきますと、たくさんの鼠がぞろぞろと出て来て、わたくしの縄を食い切るのでございます。芝居ならばそれだけですが、鼠を使うのが見世物の山ですから、その鼠がわたくしの頭へのぼったり、襟首へはいったり、ふところへ飛び込んだりして、見物にはらはらさせるのを芸当としていたのでございます。」
お元と鼠との因縁はまずこれで説明された。かれはさらに語りつづけた。
「そうしておりますうちに、江戸ばかりでも面白くないというので、両親はわたくし共を連れて旅かせぎに出ました。まず振出しに八王子から甲府へ出まして、諏訪から松本、善光寺、上田などを打って廻り、それから北国へはいって、越後路から金沢、富山などを廻って岐阜へまいりました。ひと口に申せばそうですが、そのあいだに、足掛け三年の月日が経ちまして、旅先ではいろいろの苦労をいたしました。そうして、去年の秋の初めに岐阜まで参りますと、そこには悪い疫病が流行っていまして、一座のうちで半分ほどばたばたと死んでしまいました。わたくしの両親もおなじ日に死にました。もうどうすることも出来ないので、残る一座の者は散りぢりばらばらになりましたが、そのなかにお角という三味線ひきの悪い奴がありまして、わたくしをだまして、どこかへ売ろうと企んでいるらしいので、うかうかしていると大変だと思いまして、着のみ着のままでそっと逃げ出しました。東海道を下ると追っ掛けられるかも知れないので、中仙道を取って木曾路へさしかかった頃には、わずかの貯えもなくなってしまって、もうこの上は、乞食でもするよりほかはないと思っていますと、運よく伊平さんの家に引取られて、まあ何ということなしに半年余りを暮していたのでございます。」
お元は怪しい女でなく、不幸の女である。その悲しい身の上ばなしを聞かされて、気の弱いお此は涙ぐまれて来た。
四
これからがお元の懺悔である。
「まったく申訳のないことを致しました。この三月の二十七日に、伊平さんの商売の手伝いをして三軒屋の立場茶屋へ熊の皮や熊の胆を売りに行きますと、あなた方にお目にかかりました。その時に旦那さまが子細ありそうに、私の顔をじっと眺めておいでなさるので、なんだか、おかしいと思っておりますと、やがてわたくしを傍へ呼んで、おまえの左の二の腕に青い痣《あざ》はないかとお訊きになりました。さてはこの人は娘か妹か、なにかの女をさがしているに相違ないと思う途端に、ふっと悪い料簡が起りました。こんな木曾の山の中に、いつまで暮していても仕様がない。ここで何とかごまかして……。こう思ったのがわたくしの誤りでございました。奥へ連れて行かれる時に、店の柱へ二の腕をそっと強く打ちつけて、急ごしらえの痣をこしらえまして……。わたくしはまた何という大胆な女でございましょう。旦那さまの口占《くちうら》を引きながら、いい加減の嘘八百をならべ立てて、表に遊んでいるところを見識らない女に連れて行かれたの、それから京へ行って育てられたの、継母《ままはは》にいじめられたのと、まことしやかな作りごとをして、旦那さまをはじめ皆さんをいいように欺してしまって、とうとうこの家へ乗り込んだのでございます。思えば、一から十までわたくしが悪かったのでございます。どうぞ御勘弁をねがいます。」と、かれは前髪を畳にすり付けながら泣いた。
ここらでも人に知られた近江屋七兵衛、四十二歳の分別盛りの男が、いかにわが子恋しさに眼が眩《くら》んだといいながら、十七八の小女にまんまと一杯食わされたかと思うと、七兵衛も我ながら腹が立つやら、ばかばかしいやらで、しばらくは開《あ》いた口が塞がらなかった。それでもまだ腑に落ちないことがあるので、彼は気を取直して訊いた。
「そこで、鼠はどうしたのだ。おまえが持って来たのか。」
「それが不思議でございます。」と、お元はうるんだ眼をかがやかしながら答えた。「岐阜の宿をぬけ出す時に、商売道具は勿論、鼠もみんな置き去りにして来たのでございますが、途中まで出て気がつきますと、一匹の小鼠がわたくしの袂にはいっていたのでございます。どうして紛れ込んでいた
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