行ったこともありました。
善助 むむ。天狗の出たこともある、山男の出たこともある。なにしろ斯《こ》ういう山国《やまぐに》には不思議なことが絶えないので困る。いや、飛んだ長話でお邪魔をしました。(立上る。)
おいよ もうお帰りですか。
善助 狼の出ないうちに早く帰りましょう。
おあさ (おつぎと顔をみあわせて。)もう狼が出ますかえ。
善助 なに、狼の出るのは大抵夜更けだというから、日の暮れないうちは大丈夫だ、大丈夫だ。(おいよに。)では、御免なさい。
(善助は会釈して下のかたへ去る。)
おあさ わたし達もそろそろ帰ろうではありませんか。
おつぎ もう片付けて帰りましょう。
おいよ ふだんと違って此頃は、帰りが遅いと内でも案じるであろうから、日の暮れぬうちに早くお帰りなさい。
二人 あい、あい。
(おあさとおつぎは仕立物を早々に片付ける。)
二人 では、あした又お稽古にまいります。(おいよとお妙に会釈して縁を降りる。)
お妙 気をつけておいでなさい。
おいよ 狼の噂の絶えぬあいだは、決して夜歩きをなさるなよ。
二人 あい、あい。
(おあさとおつぎは足早に下のかたへ去る。お妙は後を見送る。)
お妙 此頃は寄れば障れば狼の噂ばかりで、ほんとうに忌《いや》なことですな。兄さんも狼のありかを探して、山の奥まで踏み込んだのではありますまいか。
おいよ そんなことかも知れません。今こそ狩人になっているが、おれも昔は武家の禄《ろく》を食《は》んだ者、今度の狼はどうでも我手で仕留めねばならぬと、日頃から云い暮らしていられたから、きょうも山奥へ踏み込んで……。(向うを見る。)当途《あてど》も無しに峰や谷間《たにあい》を駈けまわって、木の根や岩角にでも蹉《つまず》くか、谷川へでも滑り落ちるか、飛んだ怪我でもしなさらねばよいが……。ここへ来てから足かけ八年、毎日の山かせぎには馴れていても、やっぱり戻るまでは案じられます。
(お妙は仕立物を片付ける。時の鐘。木の葉さびしく散る。)
おいよ (空をみる。)秋の日は短い。きょうももう暮れるか。
(鐘の声つづけて聞《きこ》ゆ。)
お妙 (おなじく空を見る。)日が暮れると、なんだか怖ろしいようです。
おいよ お前は日が暮れるのがそんなに怖ろしく思われますか。
お妙 悪い狼が出るというので……。
おいよ 悪い狼が出るというので……。(ため息をついて。)日が暮れると、わたしもまったく怖ろしい。いや、夜ばかりではない。昼間でも狼の噂を聞くと、わたしは身の毛が悚立《よだ》つような……。(身をふるわせる。)わたしは狼に取憑《とりつ》かれたのかも知れない。
お妙 (ぎょっとして。)え。
おいよ (気をかえて、無理に笑う。)ほほ、おまえは相変らず気が弱い。こんなことを云っているうちに、あの人ももう戻られるであろう。どれ、今のうちに炉の火を焚きつけて置きましょうか。おまえは夕御飯の仕度をして下さい。
お妙 あい、あい。
(薄く風の音。おいよは炉に粗朶《そだ》をくべる。お妙は仕立物を押入れに片付けて、奥に入る。下のかたより長福寺の小坊主昭全、十四五歳。足音をぬすんで忍び出で、木戸の外より内を窺いいる。おいよはやがて心づきて見かえる。)
おいよ そこにいるのは……。
(昭全は返答に躊躇していると、おいよは立って縁さきに出づ。)
おいよ おまえは長福寺のお小僧さんではないか。何でそこらに立っているのです。
昭全 (急に思案して。)実はこの……。(柿の木を指さす。)柿の実を取りに来ました。どうぞ堪忍してください。
おいよ 柿の実ならば、おまえのお寺にも沢山に生《な》っているではないか。(疑うようにじっと見て。)ほんとうに柿の実をぬすみに来たのですか。
昭全 どうも済まぬことをしました。堪忍して下さい。
(云いすてて、昭全は逃るように下のかたへ立去る。おいよは猶《なお》もじっとその跡を見送る。風の音。向うより田原弥三郎、三十四五歳、以前は武士なれど、今は浪人して猟師となっている姿、大小を横えて火縄銃をかつぎ、小鳥二三羽をさげて出づ。)
おいよ おお、戻られましたか。きょうはどうでござりました。
弥三郎 いや、相変らずの不首尾で、山又山を一日かけ廻っても、狼の足あとさえも見付からない。(持ったる小鳥を指さして苦笑いする。)から手で戻るのも忌々しいので、帰りがけにこんな物を二三羽……。人に見られても恥かしいくらいだ。
おいよ それでも何かの獲物があれば結構でござります。幸いに天気は好うござりましたが、山風はなかなか冷えたでござりましょう。早く炉のそばへおいでなされませ。
(砧の音。おいよは桶を持ちて井戸ばたへ水を汲みに出る。弥三郎は縁に腰をかけて、藁の脛巾《はばき》を解き、草鞋《わらじ》をぬぐ。奥よりお妙出づ。)
お妙 お帰りなされませ。
(
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