十年振りで我が子の顔を見ましたれば、思い置くこともござりませぬ。しかし又なまじいにめぐりあった為に、なんにも知らぬ我が子に連坐《まきぞえ》の咎めが掛かろうかと思うと、それが悲しゅうござります」と、九郎右衛門は白洲《しらす》で涙を流した。
奉行にも涙があった。六三郎はふだんから正直の聞えのある者、殊に父子とはいいながら十年も音信不通で、父の罪咎《つみとが》に就いてなんの係り合いもないことは判り切っている。また一方には親方の庄蔵から町名主《まちなぬし》にその事情を訴えて、六三郎の赦免をしきりに嘆願したので、結局六三郎はお構いなしということで免《ゆる》された。
「飛んだ災難であったが、まあ仕方がない。悪い親を持ったが因果と諦めろ」と、親方は慰めるように言った。
この噂を聞いて、お園も定めて案じているだろうとは思ったが、この場合どうしても謹慎していなければならない六三郎は、親方の手前、世間の手前、迂闊《うかつ》に外出することもできないので、じっと堪《こら》えておとなしく日を送っていた。
九郎右衛門は胆《きも》の据わった男だけに、今更なんの未練もなしに自分の罪科《ざいか》をいさぎよく白状したので、吟味にちっとも手数が掛からなかった。彼は大坂じゅうを引廻しの上で、千日寺の前に首を梟《さら》された。
なまじいに親にめぐり合ったのが六三郎の不幸であった。大方はこうなることと覚悟はしていたものの、父の罪がいよいよ獄門と決まったのを知った時は、彼は怖ろしいのと悲しいのとで、実に生きている空はなかった。今日が死罪という日には、彼は飯もくわずに泣いていた。親方もただ「諦めろ、あきらめろ」というよりほかに慰めることばもなかった。
兄弟子たちも六三郎には同情していた。近所の人たちも彼を気の毒に思っていた。しかし世間はむごいもので、気の毒とか可哀そうとかいう口の下から、大工の六三郎は引廻しの子だとか、海賊の子だとかいって、暗《あん》に彼を卑しむような蔭口をきく者も多かった。実際、海賊の子ということが彼の名誉ではなかった。気の弱い六三郎は父の悲惨な死を悲しむと同時に、自分の身に圧《お》しかかって来る世間のむごい迫害を恐れた。自分ばかりではない、大恩のある親方の顔にまでも泥を塗ったのを、彼はひどく申し訳のないことに思って嘆いた。
「そんなことをいつまでもくよくよするな、人の噂も七十五日で、
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