ると、美しい娘ばかり狙うのか。」
「美しい娘、雪の姑娘に妬まれます。」
「けしからんね。」と、堀部君は蝋燭の火を見つめながら言った。「美しい娘ばかり狙うというのは、まるで我れわれのような幽霊だ。」
李太郎はにっこりともしなかった。彼もこの奇怪な伝説に対して、すこぶる根強い迷信をもっているらしいので、堀部君はおかしくなって来た。
「で、昔からその白い女の正体をたしかに見届けた者はないんだね。」
「いいえ、見た者たくさんあります。あの雪の中に……。」と、李太郎は見えない表を指さした。「白い影のようなものが迷っています。そばへ近寄ったものはみな死にます。」
「それ以上のことは判らないんだね。で、その影のようなものは、戸が閉めてあっても、すう[#「すう」に傍点]とはいって来るのか。」
「はいって来るときには、怖ろしい音がして戸がこわれます。戸を閉めて防ぐこと出来ません。」
「そうか。」と、堀部君は思わず声を立てて笑い出した。
日本語の判らない老人は、びっくりしたように客の笑い顔をみあげた。李太郎も眼をみはって堀部君の顔を見つめていた。
「ここらにも馬賊はいるだろう。」と、堀部君は訊いた。
「馬賊《マーツェ》、おります。」と、李太郎はうなずいた。
「それだよ。きっとそれだよ。」と、堀部君はやはり笑いながら言った。「馬賊にも限るまいが、とにかくに泥坊の仕業だよ。むかしからそんな伝説のあるのを利用して、白い女に化けて来るんだよ。つまり幽霊の真似をして方々の若い娘をさらって行くのさ。その行くえの判らないというのは、どこか遠いところへ連れて行って、淫売婦か何かに売り飛ばしてしまうからだろう。美しい娘にかぎってさらわれるというのが論より証拠だ。ねえ、そうじゃないか。」
「そうでありましょうか。」と、李太郎はまだ不得心らしい眼色を見せていた。
「お前からここの主人によく話してやれよ。それは渾河に投げ込まれた女の幽霊でもなんでもない。たしかに人間の仕業に相違ない。たしかに泥坊の仕業で、幽霊のふりをして若い娘をさらって行くのだと……。いや、まったくそれに相違ないよ。昔は本当に幽霊が出たかも知れないが、中華民国の今日にそんなものが出るはずがない。幽霊がはいって来るときに、戸がこわれるというのも一つの証拠だ。何かの道具で叩きこわしてはいって来るのさ、ねえ、そうじゃあないか。ほんとうの幽霊ならば何処かの隙間《すきま》からでも自由にすっとはいって来られそうなものだのに、怖ろしい音をさせてはいって来るなどはどうも怪しいよ。それらを考えたら、幽霊の正体も大抵は判りそうなものだが……。」
あっぱれ相手の蒙《もう》をひらいたつもりで、堀部君はここまでひと息にしゃべり続けたが、それは一向に手ごたえがなかった。李太郎は木偶《でく》の坊のようにただきょろりとして、こっちの口と眼の動くのを眺めているばかりで、なんともはっきりした返事をしないので、堀部君は少し焦《じ》れったくなって来た。今どきこんな迷信にとらわれて、あくまでも雪女の怪を信じているのかと思うと、情けなくもあり、ばかばかしくも感じられてならなかった。堀部君は叱るように彼を催促した。
「おい。そのことをここの主人に話して、早く安心させてやれよ。可哀そうに顔の色を変えて心配しているじゃないか。」
叱られて、李太郎はさからわなかった。彼は主人の老人にむかって小声で話しかけた。堀部君もひと通りのシナ語には通じていたので、彼が正直に自分の意見を取次いでいるらしいのに満足して、黙って聞く人の顔色を窺っていると、老人は苦笑いをしてしずかにその頭《かしら》をふった。
「まだ判らないのか。馬鹿だな。」
堀部君は舌打ちした。今度は直接に自分から懇々と言い聞かせたが、老人は暗い顔をしてただ薄笑いをしているばかりで、どうしても、その意見を素直には受け入れないらしいので、堀部君もいよいよ癇癪《かんしゃく》を起した。
「もう勝手にするがいい。いくら言って聞かせても判らないんだから仕方がない。こんな人間だから大事の娘がさらって行かれるんだ。ばかばかしい。」
こっちの機嫌が悪いらしいので、老人は気の毒そうに黙ってしまった。李太郎も手持ち不沙汰のような形でうつむいていた。
「李太郎。もう寝ようよ。雪女でも出て来るといけないから。」と、堀部君は言いだした。
「寝る、よろしい。」
李太郎もすぐに賛成した。老人は挨拶して、自分の部屋の方へ帰った。寝床のむしろを探ってみると、煖炉は丁度いい加減に暖まっているので、堀部君は靴をぬいで寝床へ上がって毛織りの膝掛けを着てごろ寝をしてしまった。李太郎はもう半分以上も燃えてしまった蝋燭の火を細い火縄に移して、それからその蝋燭を吹き消した。火縄は蓬《よもぎ》の葉を細く縒合《よりあわ》せたもので、天井から長く吊り下げてあった。
疲れている堀部君は暖かい寝床の上でいい心持に寝てしまったが、自分の頭の上にある窓の戸を強くゆするような音におどろかされて眼を醒ました。部屋のうちは真っ暗で、細い火縄の火が秋の蛍のように微かに消え残っているばかりである。むこう側の寝床の上には、李太郎が鼾《いびき》を立てて寝入っているらしかった。耳をすまして窺うと、家のうちはしィんとして鼠の走る音も聞えなかったが、表の吹雪はいよいよ吹き暴れて来たらしく、浪のような音を立ててごうごうと吹き寄せていた。窓の戸の揺れたのはこの雪風であることを堀部君はすぐに覚《さと》った。満洲の雪の夜、その寒さと寂しさとには馴れていながらも、堀部君はなんだか眼がさえて再び寝つかれなくなった。
床の上に起き直って、堀部君はマッチをすって、懐中時計を照らしてみると、今夜はもう十二時に近かった。ついでに巻煙草をすいつけて、その一本をすい終った頃に、烈しい吹雪はまたどっと吹き寄せて来て、窓の戸を吹き破られるかと思うように、がたがたとあおられた。宵の話を思い出して、かの雪女が闖入《ちんにゅう》して来る時には、こんな物音がするかも知れないなどと堀部君は考えた。そうして、またもや横になったが、一旦さえた眼はどうしても合わなかった。
「なぜだろう。」
自分は有名の寝坊で、いつも朋輩《ほうばい》たちに笑われているくらいである。なんどきどんな所でも、枕につけばきっと朝までは正体もなく寝てしまうのが例であるのに、今夜にかぎって眠られないのは不思議である。やはりかの雪女の一件が、頭のなかで何かの邪魔をしているのではあるまいか。俺もだんだんシナ人にかぶれて来たかと、堀部君は自分で自分の臆病をあざけったが、また考えてみると、幽霊よりも馬賊の方が恐ろしい。幽霊などは初めから問題にならないが、馬賊は何をするか判らない。日本人が今夜ここに泊り込んだのを知って、夜なかに襲って来ないとも限らない。堀部君は提げ鞄《かばん》からピストルを探り出して、枕もとにおいた。こうなるといよいよ眠られない。いや、眠られない方が本当であるかも知れないと思い直して、堀部君は寝床の上に起き直ってしまった。
寝しずまった村の上に吹雪は小やみもなしに暴れ狂っていた。夜がふけて煖炉の火もだんだん衰えたらしく、堀部君は何だかぞくぞくして来たので、探りながら寝床を這《は》い降りて、まん中の土間へ焚き物の高梁《コーリャン》を取りに行った。土間の隅にはかの土竈《どべっつい》があって、そのそばには幾束の高梁が積み重ねてあることを知っているので、堀部君は探り足でその方角へ進んで行くと、切株の腰掛けにつまずいて危うく転びそうになったので、あわててマッチをすると、その火は物に掴《つか》まれたようにふっと消えてしまった。
その一|刹那《せつな》である。入口の戸にさらさらと物の触れるような音がきこえた。
三
暗いなかで耳を澄ますと、それは細かい雪の触れる音らしいので、堀部君は自分の神経過敏を笑った。しかもその音は続けてきこえるので、堀部君はなんだか気になってならなかった。さっきから吹きつけている雪の音は、こんなに静かな柔かいものではない。気のせいか、何者かが戸の外へ忍んで来て内を窺っているらしくも思われるので、堀部君はぬき足をして入口の戸のそばへ忍んで行った。戸に耳を押し付けてじっと聞き澄ますと、それは雪の音ではない。どうも何者かがそこに佇《たたず》んでいるらしいので、堀部君はそっと自分の部屋へ引っ返して、枕もとのピストルを掴んだ。それから小声で李太郎を呼び起した。
「おい、起きろ、起きろ。李太郎。」
「あい、あい。」と、李太郎は寝ぼけ声で答えたが、やはりすぐには起き上がりそうもなかった。
「李太郎、早く起きろよ。」と、堀部君はじれて揺り起した。「雪女が来た。」
「あなた、嘘あります。」
「嘘じゃない、早く起きてくれ。」
「ほんとうありますか。」ど、李太郎はあわてて飛び起きた。
「どうも戸の外に何かいるらしい。僕も一緒に行くから、戸をあけてみろ。」
「いけません、いけません。」と、李太郎は制した。「あなた、見ることよろしくない。隠れている、よろしい。」
暗がりで顔は見えないが、その声がひどくふるえているので、かれが異常の恐怖におそわれているらしいのが知られた。堀部君はその肩のあたりを引っ掴んで、寝床から引きずりおろした。
「弱虫め。僕が一緒に行くから大丈夫だ。早くしろ。」
李太郎は探りながら靴をはいて、堀部君に引っ張られて出た。入口の戸は左右へ開くようになっていて、まん中には鍵がかけてあった。そこへ来て、また躊躇《ちゅうちょ》しているらしい彼を小声で叱り励まして、堀部君はその扉をあけさせた。李太郎はふるえながら鍵をはずして、一方の扉をそっと細目にあけると、その隙間から灰のような細かい雪が眼つぶしのようにさっと吹き込んで来た。片手にはピストル、片手はハンカチーフで眼をぬぐいながら、堀部君は扉のあいだから表を覗くと、外は一面に白かった。
どちらから吹いて来る風か知らないが、空も土もただ真っ白な中で、そこにもここにも白い渦が大きい浪のように巻き上がって狂っている。そのほかにはなんの影も見えないので、堀部君は案に相違した。なんにも居ないらしいのに安心して、李太郎は思い切ってその扉を大きく明けると、氷のように寒い風が吹雪と共に狭い土間へ流れ込んで来たので、ふたりは思わず身をすくめる途端に、李太郎は小声であっ[#「あっ」に傍点]と言った。そうして、力いっぱいに堀部君の腕をつかんだ。
「あ、あれ、ごらんなさい。」
彼が指さす方角には、白馬が跳《おど》り狂っているような吹雪の渦が見えた。その渦の中心かと思うところに更に、いつそう白い影がぼんやりと浮いていて、それは女の影であるらしく見えたので、堀部君もぎょっとした。ピストルを固く握りしめながら、息を殺して窺っていると、女のような白い影は吹雪に揉まれて右へ左へただよいながら、門内の空地《あきち》をさまよっているのであった。雪煙りかと思って堀部君は眼を据えてきっと見つめていたが、それが煙りかまぼろしか、その正体をたしかめることが出来なかった。しかし、それが人間でないことだけは確かであるので、馬賊の懸念はまず消え失せて、堀部君もピストルを握った拳《こぶし》がすこしゆるむと、家のなかから又もや影のように迷い出たものがあった。
その影は二人のあいだをするりと摺りぬけて、李太郎のあけた扉の隙間から表へふらふらと出ていった。
「あ、姑娘《クーニャン》。」と、李太郎が小声でまた叫んだ。
「ここの家《うち》の娘か。」
あまりの怖ろしさに李太郎はもう口がきけないらしかった。しかしそれが家の娘であるらしいことは容易に想像されたので、堀部君はピストルを持ったままで雪のなかへ追って出ると、娘の白い影は吹雪の渦に呑まれて忽《たちま》ち見えなくなった。
「早く主人に知らせろ。」
李太郎に言い捨てて、堀部君は強情に雪のなかを追って行くと、門のあたりで娘の白い影がまたあらわれた。と思うと、それは浪にさらわれた人のように、雪けむりに巻き込まれて門の外へ投げやられたらしく見えた。門は幸いに低
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