る。その弱いひかりで堀部君は懐中時計を透かしてみると、午後六時を少し過ぎた頃であった。ここらの人たちはみな早寝であるが、堀部君にとってはまだ宵の口である。いくら疲れていても、今からすぐに寝るわけにもいかないので、幾分か迷惑そうな顔をしている老人を相手に、堀部君はまたいろいろの話をしているうちに、右の方の部屋で何かがたり[#「がたり」に傍点]という音がしたかと思うと、老人は俄《にわ》かに顔色を変えて、あわただしく腰掛けを起《た》って、その部屋へ駈け込んで行った。
その慌て加減があまりに烈しいので、堀部君も少しあっけに取られていると、老人はなにか低い声で口早にいっているらしかったが、それぎり暫くは出て来なかった。
「どうしたんだろう。病人でも悪くなったのか。」と、堀部君は李太郎に言った。「お前そっと覗《のぞ》いてみろ。」
ひとの内房を窺うというのは甚だよろしくないことであるので、李太郎は少し躊躇《ちゅうちょ》しているらしかったが、これも一種の不安を感じたらしく、とうとう抜き足をして真ん中の土間へ忍び出て、右の方の部屋をそっと窺いに行ったが、やがて老人と一緒にこの部屋へ戻って来た。老人の顔の色はまだ蒼ざめていた。
「病人、悪くなったのではありません。」と、李太郎は説明した。
しかし彼の顔色も少し穏かでないのが、堀部君の注意をひいた。
「じゃ、どうしたんだ。」
「雪の姑娘《クーニャン》、来るかも知れません。」
「なんだ、雪の姑娘というのは……。」
雪の姑娘――日本でいえば、雪女とか雪女郎とかいう意味であるらしい。堀部君は不思議そうに相手の顔を見つめていると、李太郎は小声で答えた。
「雪の娘――鬼子《コイツ》であります。」
「幽霊か。」と、堀部君もいよいよ眉《まゆ》を皺《しわ》めた。「そんか化け物が出るのか。」
「化け物、出ることあります。」と、李太郎は又ささやいた。「ここの家、三年前にも娘を取られました。」
「娘を取る……。その化け物が……。おかしいな。ほんとうかい。」
「嘘ありません。」
なるほど嘘でもないらしい。死んだ者のように黙っている老人の蒼い顔には、強い強い恐怖の色が浮かんでいた。堀部君もしばらく黙って考えていた。
二
雪の娘――幾年か満洲に住んでいる堀部君も、かつてそんな話を聞いたことはなかったが、今夜はじめてその説明を李太郎の口から聞
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