。その報告をきいて、与茂四郎は深い溜息をつきました。
「ああ、手前がもう少し早くまいればよかった。それでも御主人の出向かれなかったのが、せめてもの仕合せであった。」
 そう言ったぎりで、与茂四郎は帰ってしまいました。主人の方はそれから一刻《いっとき》ほどして起きられるようになりましたが、文阿と半兵衛の姿はどうしても見付かりません。そのうちに秋の日も暮れて来たので、もう仕方がないとあきらめて、店の者も漁師たちも残念ながら一とまず引揚げることになりました。それらが帰って来たので、店先はごたごたしている。祖母も店へ出て大勢の話を聴いていますと、奥から俳諧師の野水が駈け出して来まして、誰か早く来てくれというのです。
 野水という人はもう少し前に帰って来て、自分の留守のあいだにいろいろの事件が出来しているのに驚かされて、その見舞ながら奥へ行って主人の増右衛門と何か話していたのです。それがあわただしく駈け出して来たので、大勢はまたびっくりしてその子細を訊きますと、ただいま御主人と奥座敷で話しているうちに、何か庭先でがさがさという音がきこえたので、なに心なく覗いてみると、二匹の大きい蟹が縁の下から這い出して、こっちへ向って鋏をあげた。それを一と目みると、御主人は気をうしなって倒れたというのです。
 それは大変だと騒ぎ出して、またもや医師を呼びにやる。それからそれへといろいろの騒動が降って湧くので、どの人の魂も不安と恐怖とに強くおびやかされて、なんだか生きている空もないようになってしまいました。それは薄ら寒い秋の宵で、その時のことを考えると今でもぞっとすると、祖母は常々言っていました。
 まったくそうだろうと思いやられます。増右衛門は医師の手当で再び正気に戻りましたが、一日のうちに二度も卒倒したのですから、医者はあとの養生が大切だと言い、本人も気分が悪いと言って、その後は半月ほども床に就いていました。
 二匹の蟹はほんとうに姿をあらわしたのか、それとも増右衛門のおびえている眼に一種の幻影をみたのか、それは判りません。しかし本人ばかりでなく、野水も確かに見たというのです。ゆうべからゆくえ不明になっている二匹の蟹が、あるいは縁の下に隠れていたのではないかと、大勢が手分けをして詮索しましたが、庭の内にはそれらしい姿を見いだしませんでした。家が大きいので、縁の下はとても探し切れませんでしたから、あるいは奥の方へ逃げ込んでしまったのかも知れません。
 今日の我れわれから考えますと、どうもそれは主人と野水の幻覚らしく思われるのですが、一概にそうとも断定のできないのは、ここにまた一つの事件があるのです。前にも申した通り、文阿は十蟹の図をかきかけて出て行ったので、その座敷はそのままになっていたのですが、あとであらためてみると、絵具皿は片端から引っくり返されて、九匹の蟹をかいてある大幅の上には墨や朱や雌黄《しおう》やいろいろの絵具を散らして、蟹が横這いをしたらしい足跡がいくつも残っていました。してみると、かの二匹の蟹が文阿のあき巣へ忍び込んで、その十蟹の絵絹の上を踏み荒らしたように思われます。
 それから一週間ほど過ぎて、文阿と半兵衛の死骸が浮きあがりました。ふたりともに顔や身体の内を何かに啖《く》い取られて、手足や肋《あばら》の骨があらわれて、実にふた目とは見られない酷《むご》たらしい姿になっていたそうです。漁師たちの話では、おそらく蟹に啖われたのであろうということでした。
 これでともかくも二人の死骸は見付かりましたが、かの小僧だけは遂にゆくえが判りません。誰に訊いても、ここらでそんな小僧の姿を見た者はないから、多分ほかの土地の者であろうというのです。大方そんなことかも知れません。まさかに川や海の中から出て来たわけでもありますまい。
 増右衛門はその以来、決して蟹を食わないばかりか、掛軸でも屏風でも、床の間の置物でも、莨《たばこ》入れの金物でも、すべて蟹にちなんだようなものはいっさい取捨ててしまいました。それでも薄暗い時などには、二匹の蟹が庭先へ這い出して来たなどと騒ぎ立てることがあったそうです。海の蟹が縁の下などに長く棲んでいられるはずはありませんから、これは勿論、一種の幻覚でしょう。
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   一本足《いっぽんあし》の女《おんな》


     一

 第九の男は語る。

 わたしは千葉の者であるが、馬琴《ばきん》の八犬伝でおなじみの里見の家は、義実《よしざね》、義|成《なり》、義|通《みち》、実尭《さねたか》、義|豊《とよ》、義|尭《たか》、義|弘《ひろ》、義|頼《より》、義|康《やす》の九代を伝えて、十代目の忠義《ただよし》でほろびたのである。それは元和元年、すなわち大坂落城の年の夏で、かの大久保|相模守《さがみのかみ》の姻戚関係から滅亡の禍いをまねいたのであると伝えられている。
 大久保相模守|忠隣《ただちか》は相州小田原の城主で、徳川家の譜代大名のうちでも羽振りのよい一人であったが、一朝にしてその家は取潰されてしまった。その原因は明らかでない。かの大久保|石見守《いわみのかみ》長安の罪に連坐したのであるともいい、または大坂方に内通の疑いがあったためであるともいい、あるいは本多佐渡守|父子《おやこ》の讒言によるともいう。いずれにしても里見忠義は相模守忠隣のむすめを妻にしていた関係上、舅《しゅうと》の家がほろびると間もなく、彼もその所領を召し上げられて、伯耆《ほうき》の国に流罪を申付けられ、房州の名家もその跡を絶ったのである。里見の家が連綿としていたら、八犬伝は世に出なかったに相違ない。馬琴はさらに他の題材を選ばなければならないことになったであろう。
 馬琴の口真似をすると、閑話休題《あだしごとはさておき》、これからわたしが語ろうとするのは、その里見の家がほろびる前後のことである。忠義の先代義康は安房《あわ》の侍従と呼ばれた人で、慶長《けいちょう》八年十一月十六日、三十一歳で死んでいる。その三周忌のひと月かふた月前のことであるというから、慶長十年の晩秋か初冬の頃であろう。
 当代の忠義に仕えている家来のうちに、百石取りの侍に大滝庄兵衛というのがあった。百石といっても、実際は百俵であったそうだが、この百石取りが百人あって、それを安房の百人衆と唱え、里見の部下ではなかなか幅が利いたものであるという。その庄兵衛が夫婦と中間《ちゅうげん》との三人づれで館山《たてやま》の城下の延命寺へ参詣に行った。延命寺は里見家の菩提寺である。その帰り路に、夫婦は路傍にうずくまっている一人の少女をみた。
 少女は乞食であるらしく、夫婦がここへ通りかかったのを見て、無言で土に頭を下げると、夫婦も思わず立ちどまった。仏参の帰りに乞食をみて、夫婦はいくらかの銭《ぜに》を恵んでやろうとしたのではない。今度の忠義の代になってから、乞食に物を恵むことを禁じられていた。乞食などは国土の費《つい》えである。ひっきょうかれらに施し恵む者があればこそ、乞食などというものが殖えるのであるから、ひと粒の米、一文の銭もかれらに与えてはならぬと触れ渡されていた。庄兵衛夫婦も勿論その趣旨に従わなければならないのであるから、今や自分たちの前に頭を下げているこの乞食をみても、素知らぬ顔をして通り過ぎるのが当然であったが、ここで彼ら夫婦が思わず足をとどめたのは、その少女がいかにも美しく可憐に見えたからであった。
 少女はまだ八つか九つぐらいで、袖のせまい上総《かずさ》木綿の単衣《ひとえもの》、それも縞目の判らないほどに垢付いているのを肌寒そうに着ていた。髪はもちろん振り散らしていた。そのおどろ髪のあいだから現われているかれの顔は、磨かない玉のようにみえた。
「まあ、可愛らしい。」と、庄兵衛の妻はひとりごとのように言った。
「むむ。」と、夫も溜息をついた。
 物を恵むとか恵まないとかいうのは二の次として、夫婦はこの可憐な少女を見捨てて行くのに忍びないような気がしたので、妻は立寄ってその歳《とし》や名をきくと、歳は九つで名は知らないと答えた。
「生れたところは。」
「知りません。」
「両親の名は。」
「知りません。」
 こういう身の上の少女が生国《しょうこく》を知らず、ふた親の名を知らず、わが名を知らないのは、さのみ珍しいことでもない。少女は妻の問いに対して、自分は赤児《あかご》のときに路傍に捨てられていたのを或る人に拾われたが、三つの年にまた捨てられた。それから又ある人に拾われたが、これも一年ばかりでまた捨てられた。拾われては捨てられ、捨てられては拾われ、その後二、三人の手を経るうちに、少女はともかくも七つになった。これまで生長すれば、乞食をしてもどうにか生きてゆかれるので、人のなさけにすがりながら今まで露命をつないでいると話した。
「まあ、可哀そうに……。」と、庄兵衛の妻は涙ぐんだ。「おまえのような可愛らしい子が、なぜ行く先ざきで捨てられるのか。」
「それはわたくしが不具者《かたわもの》であるからでございます。」と、少女はその美しい眼に涙をやどした。「世にも少ない不具者を誰が養ってくれましょう。はじめは不憫を加えてくれましても、やがては愛想をつかされるのでございます。」
 かれは年よりもませた口ぶりで言った。しかし見たところでは、人並すぐれた容形《なりかたち》で、別に不具者らしい様子もないので、妻も庄兵衛も不思議に思った。恥かしいのか、悲しいのか、少女は身をすくめ、身をふるわせて、ただすすり泣きをしているばかりであるのを、夫婦がいろいろになだめすかして詮議すると、かれが不具である子細が初めて判った。
 土に坐っているので今までは気が付かなかったが、少女は一本足であった。かれは左の足をもっているだけで、右の足は膝の上から切断されているのであった。生れ落ちるとからの不具ではない。さりとて何かの病いのために切断したのでもない。おそらく何かの子細で路ばたに捨てられていたところを、野良犬か狼のような獣《けもの》のために片足を啖い切られたらしいと、その疵口の模様によって庄兵衛は判断した。
 こうなると、夫婦はいよいよ不憫が増して来て、どうしてもこのままに見捨ててゆく気にはなれなくなった。こういう美しい、いじらしい少女を乞食にしておくということが不憫であるばかりでなく、前にもいう通りのお触れが出ている以上、かれは何人《なんぴと》の恵みをも受けることが出来なくなって、早く他領へ立退くか、あるいはここでみすみす飢え死にしなければならないのである。庄兵衛は試みに少女に訊いた。
「おまえは乞食に物をやるなというお触れの出ているのを知らないのか。」
「知りません。」と、かれはまったく何にも知らないように答えた。
 庄兵衛の妻はまた泣かされた。かれは夫を小蔭へまねいて、なんとかしてかの少女を救ってやろうではないかとささやくと、庄兵衛にも異存はなかった。しかし自分も里見家につかえる身の上で、この際おもて向きに乞食を保護するなどは穏かでないと思ったので、彼はきょうの供に連れて来た中間の与市を呼んで相談した。
 与市は館山の城下から遠くない西岬《にしみさき》という村の者で、実家は農であるが、武家奉公を望んで二、三年前から庄兵衛の屋敷に勤めているのである。年は若いが正直|律義《りちぎ》の者で、実家には母も兄もある。庄兵衛はかの少女をひとまず与市の実家へあずけておきたいと思って、ひそかにその相談をすると、与市は素直に承知した。
「それではすぐに連れて行ってくれ。」
 主人の命令にそむかない与市は、一本足の乞食の少女を背負って、すぐに自分の実家へ運んで行った。まずこれで安心して庄兵衛夫婦もそのまま自分の屋敷へ帰ると、日の暮れるころに与市は戻って来て、かれを確かに母や兄に頼んでまいりましたと報告した。
 それから半月ほどの後に、庄兵衛の妻はその様子を見届けながらに西岬の家へたずねてゆくと、少女はつつがなく暮らしていた。与市の母や兄も律義者で、主人の指図を大事に心得ているばかりでなく、彼らは不具の少女に不便《ふびん》を
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