のような星が一面に光って、そこらにはこおろぎ[#「こおろぎ」に傍点]の声がみだれて聞えた。今夜はもう霜がおりたのかと思われるほどに、重い夜露が暗いなかに薄白く見えた。
「寒い、寒い。もう一度、高粱を焚こう。」
S君を見送ると僕たちは早々に内へはいった。
あくる朝ここを出るときに、かの老人は再び湯と茶と砂糖とを持って来てくれた。彼は愛想よく我れわれに挨拶していたが、気のせいかその顔には暗い影が宿っていた。ゆうべの薬をのませたら、病人もけさは非常に気分がいいと言って、彼は繰返して礼をいっていた。
前方の銃声がけさは取分けて烈しくきこえるので、僕たちもそれにうながされるように急いで身支度をした。S君のゆうべの話を再び考えるひまもなしに、僕たちは所属師団司令部の所在地へ駈けて行った。老人は門前まで送って来て、あわただしく出て行く我れわれに対して、いちいち会釈《えしゃく》していた。
我れわれが遼陽の城外にゆき着いたのは、それから三日の後である。その後、僕は徐の家を訪問する機会がなかったが、かの老人はどうしたか、病める娘はどうしたか。妖ある家は遂にほろびたか、あるいは依然として栄えているか。今ときどきに思い出さずにはいられない。
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蟹《かに》
一
第八の女は語る。
これはわたくしの祖母から聴きましたお話でございます。わたくの郷里は越後の柏崎で、祖父の代までは穀屋《こくや》を商売にいたしておりましたが、父の代になりまして石油事業に関係して、店は他人に譲ってしまいました。それを譲り受けた人もまた代替りがしまして、今では別の商売になっていますが、それでも店だけは幾分か昔のすがたを残していまして、毎年の夏休みに帰省しますときには、いつも何だか懐かしいような心持で、その店をのぞいて通るのでございます。
祖母は震災の前年に七十六歳で歿しましたが、嘉永《かえい》元年|申《さる》歳の生れで、それが十八の時のことだと申しますから、たぶん慶応初年のことでございましょう。祖母はお初と申しまして、お初の父――すなわちわたくしの曽祖父《ひいじじい》にあたる人は増右衛門、それがそのころの当主で、年は四十三四であったとか申します。先祖は出羽《でわ》の国から出て来たとかいうことで、家号は山形屋といっていました。土地では旧家の方でもあり、そのころは商売もかなり手広くやっていましたので、店のことは番頭どもに大抵任せておきまして、主人とはいいながら、曽祖父の増右衛門は自分の好きな俳諧をやったり、書画骨董などをいじくったりして、半分は遊びながら世を送っていたらしいのです。そういう訳でしたから、書家とか画家とか俳諧師という人たちが北国の方へ旅まわりして来ると、きっとわたくしの家へ草鞋《わらじ》をぬぐのが習いで、中には二月も三月も逗留して行くのもあったといいます。
このお話の時分にも、やはりふたりの客が逗留していました。ひとりは名古屋の俳諧師で野水《やすい》といい、ひとりは江戸の画家で文阿《ぶんあ》という人で、文阿の方が二十日《はつか》ほども先に来て、ひと月以上も逗留している。野水の方はおくれて来て、半月ばかりも逗留している。そこで、なんでも九月のはじめの晩のことだといいます。主人の増右衛門が自分の知人でやはり俳諧や骨董の趣味のあるもの四人を呼びまして、それに、野水と文阿を加えて主人と客が七人、奥の広い座敷で酒宴を催すことになりました。
呼ばれた四人は近所の人たちで、暮れ六つごろにみな集まって来ました。お膳を据える前に、まずお茶やお菓子を出して、七人がいろいろの世間話などをしているところへ、ぶらりとたずねて来たのは坂部|与茂四郎《よもしろう》という浪人でした。浪人といっても、羊羹色の黒羽織などを着ているのではなく、なかなか立派な風をしていたそうです。
御承知でもございましょうが、江戸時代にはそこらは桑名藩の飛地《とびち》であったそうで、町には藩の陣屋がありました。その陣屋に勤めている坂部与五郎という役人は、年こそ若いがたいそう評判のよい人であったそうで、与茂四郎という浪人はその兄《あに》さんに当るのですが、子供のときからどうもからだが丈夫でないので、こんにちでいえばまあ廃嫡というようなわけになって、次男の与五郎が家督を相続して、本国の桑名からここの陣屋詰を申付かって来ている。
兄さんの与茂四郎は早くから家を出て、京都へのぼって或る人相見のお弟子になっていたのですが、それがだんだんに上達して、今では一本立ちの先生になって諸国をめぐりあるいている。人相を見るばかりでなく、占いもたいそう上手だということで、この時は年ごろ三十二三、やはり普通の侍のように刀をさしていて、服装《みなり》も立派、人柄も立派、なんにも知らない人には、立派なお武家さまとみえるような人物でしたから、なおさら諸人が尊敬したわけです。
その人が諸国をめぐって信州から越後路へはいって、自分の弟が柏崎の陣屋にいるのをたずねて来て、しばらくそこに足をとめている。曽祖父の増右衛門もふだんから与五郎という人とは懇意にしていましたので、その縁故から兄の与茂四郎とも自然懇意になりまして、時どきはこちらの家へも遊びに来ることがありました。今夜も突然にたずねて来たのです。こちらから案内したのではありませんが、丁度よいところへ来てくれたといって、増右衛門はよろこんで奥へ通しました。
「これはお客来の折柄、とんだお邪魔をいたした。」と与茂四郎は気の毒そうに座に着きました。
「いや、お気の毒どころではない。実はお招き申したいくらいであったが、御迷惑であろうと存じて差控えておりましたところへ、折よくお越しくだされて有難いことでございます。」と、増右衛門は丁寧に挨拶して、一座の人々をも与茂四郎に紹介しました。勿論、そのなかには、前々から顔なじみの人もありますので、一同うちとけて話しはじめました。
よいところへよい客が来てくれたと主人は喜んでいるのですが、不意に飛入りのお客がひとり殖えたので、台所の方では少し慌てました。前に申上げた祖母のお初はまだ十八の娘で、今夜のお給仕役を勤めるはずになっているので、なにかの手落ちがあってはならないと台所の方へ見まわりに行きますと、お料理はお杉という老婢《ばあや》が受持ちで、ほかの男や女中たちを指図して忙しそうに働いていましたが、祖母の顔をみると小声で言いました。
「お客さまが急にふえて困りました。」
「間に合わないのかえ。」と、祖母も眉をよせながら訊きました。
「いえ、ほかのお料理はどうにでもなりますが、ただ困るのは蟹でございますよ。」
増右衛門はふだんから蟹が大好きで、今夜の御馳走にも大きい蟹が出るはずになっているのですが、主人と客をあわせて七人前のつもりですから、蟹は七匹しか用意してないところへ、不意にひとりのお客がふえたのでどうすることも出来ない。
出入りの魚屋《さかなや》へ聞き合せにやったが、思うようなのがない。なにぶんにも物が物ですから、その大小が不揃いであると甚だ恰好が悪い。あとできっと旦那さまに叱られる。台所の者もみな心配して、半兵衛という若い者がどこかで見付けて来るといってさっきから出て行ったが、それもまだ帰らない。その蟹の顔を見ないうちは迂濶《うかつ》にほかのお料理を運び出すことも出来ないので、まことに困っていると、お杉は顔をしかめて話しました。
「まったく困るねえ。」と、祖母もいよいよ眉をよせました。ほかにも相当の料理が幾品も揃っているのですから、いっそ蟹だけをはぶいたらどうかとも思ったのですが、なにしろ父の増右衛門が大好きの物ですから、迂濶にはぶいたら機嫌を悪くするに決まっているので、祖母もしばらく考えていますと、奥の座敷で手を鳴らす声がきこえました。
祖母は引っ返して奥へゆきますと、増右衛門は待ちかねたように廊下に出て来ました。
「おい、なにをしているのだ。早くお膳を出さないか。」
催促されたのを幸いに、祖母は蟹の一件をそっと訴えますと、増右衛門はちっとも取合いませんでした。
「なに、一匹や二匹の蟹が間に合わないということがあるものか。町になければ浜じゅうをさがしてみろ、今夜はうまい蟹を御馳走いたしますと、お客さまたちに吹聴《ふいちょう》してしまったのだ。蟹がなければ御馳走にはならないぞ。」
こう言われると、もう取付く島もないので、祖母もよんどころなしに台所へまた引っ返して来ると、台所の者はいよいよ心配して、かの半兵衛が帰って来るのを今か今かと首をのばして待っているうちに、時刻はだんだん過ぎてゆく。奥では焦《じ》れて催促する。
誰も彼も気が気でなく、ただうろうろしているところへ、半兵衛が息を切って帰ってきました。それ帰ったというので、みんながあわてて駈け出してみると、半兵衛はひとりの見馴れない小僧を連れていました。小僧は十五六で、膝っきりの短い汚れた筒袖を着て、古い魚籠《さかなかご》をかかえていました。それをみて皆まずほっとしたそうです。
その魚籠のなかには、三匹の蟹が入れてあったので、こっちに準備してある七匹の蟹と引合せて、それに似寄りの大きさのを一匹買おうとしたところが、その小僧は遠いところからわざわざ連れて来られたのだから、三匹をみんな買ってくれというのです。
何分こっちも急いでいる場合、かれこれと押問答をしてもいられないので、その言う通りにみな買ってやることにして、値段もその言う通りに渡してやると、小僧は空《から》の籠をかかえてどこかへ立去ってしまいました。
「まずこれでいい。」
みなも急に元気が出て、すぐにその蟹を茹《ゆ》ではじめました。
二
お酒が出る、お料理がだんだんに出る。主人も客もうちくつろいで、いい心持そうに飲んでいるうちに、かの蟹が大きい皿の上に盛られて、めいめいの前に運び出されました。
「さっきも申上げた通り、今夜の御馳走はこれだけです。どうぞ召上がってください。」
こう言って、増右衛門は一座の人たちにすすめました。わたくしの郷里の方で普通に取れます蟹は、俗にいばら[#「いばら」に傍点]蟹といいまして、甲の形がやや三角形になっていて、その甲や足に茨《いばら》のような棘《とげ》がたくさん生えているのでございますが、今晩のは俗にかざみ[#「かざみ」に傍点]といいまして、甲の形がやや菱形になっていて、その色は赤黒い上に白い斑《ふ》のようなものがあります。海の蟹ではこれが一等うまいのだと申しますが、わたくしは一向存じません。
なにしろ今夜はこの蟹を御馳走するのが主人側の自慢なのですから、増右衛門は人にもすすめ自分も箸を着けようとしますと、上座に控えていましたかの坂部与茂四郎という人が急に声をかけました。
「御主人、しばらく。」
その声がいかにも子細ありげにきこえましたので、増右衛門も思わず箸をやめて、声をかけた人の方をみかえると、与茂四郎はひたいに皺をよせてまず主人の顔をじっと見つめました。それから片手に燭台をとって、一座の人たちの顔を順々に照らしてみた後に、ふところから小さい鏡をとり出して自分の顔をも照らして見ました。そうして、しばらく溜息をついて考えていましたが、やがてこんなことを言い出しました。
「はて、不思議なことがござる。この座にある人々のうちで、その顔に死相のあらわれている人がある。」
一座の人たちは蒼《あお》くなりました。人相見や占いが上手であるというこの人の口から、まじめにこう言い出されたのですから驚かずにはいられません。どの人もただ黙って与茂四郎の暗い顔を眺めているばかりでした。お給仕に出ていた祖母も身体じゅうが氷のようになったそうです。
すると、与茂四郎は急に気がついたように、祖母の方へ向き直りました。この人は今まで主人と客との顔だけを見まわして、この席でたった一人の若い女の顔を見落していたのです。それに気がついて、さらに燭台を祖母の顔の方へ差向けられたときには、祖母はまったく死んだような心持であったそうです。それでも祖母には別
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