しい。したがってその病気全快というのもなんだか疑わしいので、庄屋もその返事に渋っているところへ、あたかもかの蛇吉が催促に来て、まだなんにも心当りはないかと言った。
嫁にやりたいという人、嫁を貰いたいという人、それが同時に落ち合ったのは何かの縁かも知れないと思ったので、庄屋はともかくもその話を切出してみると、蛇吉は二つ返事で何分よろしく頼むと答えた。女は三十七で自分よりも五つ年上であること、女は茶屋奉公のあがりで悪い病気のあること、それらをすべて承知の上で自分の嫁に貰いたいと彼は言った。
こうなれば、もう子細はない。話はすべるように進行して、それから更に半月とは過ぎないうちに、蛇吉の家には年増《としま》の女房が坐り込んでいるようになった。女房の名はお年《とし》というのであった。
庄屋の疑っていた通り、お年はまだほんとうに全快しているのではなかった。無理に起きてはいるものの、お年は真っ蒼な顔をして幽霊のように痩せ衰えていた。よんどころない羽目で世話をしたものの、あれで無事に納まってくれればいいがと、庄屋も内々心配していると、不思議なことには、それからまた半月と過ぎ、ひと月と過ぎてゆくうちに、お年はめきめきと元気が付いて来て、顔の色も見ちがえるように艶々《つやつや》しくなった。
「蛇吉が蛇の黒焼でも食わしたのかも知れねえぞ。」と、陰では噂をする者もあった。
それはどうだか判らないが、お年が健康を回復したのは事実であった。そうして、年下の亭主と仲よく暮らしているのを見て、庄屋もまず安心した。実際、かれらの夫婦仲は他人の想像以上にむつまじかった。多年大勢の男を翻弄して来た莫蓮女《ばくれんおんな》のお年も、蛇吉という男に対しては我れながら怪しまれるほどに濃厚の愛情をささげて仕えた。蛇吉も勿論かれを熱愛した。こうして三年あまりも同棲しているあいだに、蛇吉は自分の仕事の上の秘密を大かたは妻に打明けてしまった。
彼の家のうしろには屋根の低い小屋がある。北向きに建てられて、あたりには樹木が繁っているので、昼でも薄暗く、年中じめじめしている。その小屋の隅に見なれない茸《きのこ》の二つ三つ生えているのをお年が見つけて、あれは何だと蛇吉にたずねると、それは蛇を捕る薬であると彼は説明した。大小幾匹の蛇を殺して、その死骸を土の底ふかく埋めておくと、二、三年の後にはその上に一種の茸が生える。それを陰干《かげぼし》にしたのを細かく刻み、更に女の髪の毛を細かく切って、別に一種の薬をまぜて煉り合せる。そうして出来上がった薬を焼くと、うわばみはその匂いを慕って近寄るのであると言った。ただし他の一種の薬だけは、蛇吉も容易にその秘密を明かさなかった。もう一つ、かのうわばみと戦うときに振りまく粉薬というのも、やはりその物に何物かを調合するのであった。たといその秘密をくわしく知ったところで、他人にはしょせん出来そうもない仕事であるから、お年もその以上には深く立入って詮議もしなかった。
夫婦の仲もむつまじく、生活に困るのでもなく、一家はまことに円満に暮らしているのであるが、なぜかこの頃は蛇吉の元気がだんだんに衰えて来たようにも見られた。彼は時々にひとりで溜息をついていることもあった。お年もなんだか不安に思って、どこか悪いのではないかと訊いても、夫は別に何事もないと答えた。しかし、ある時こんな事を問わず語りに言い出した。
「おれもこんなことを長くはやっていられそうもないよ。」
お年は別に現在の職業を嫌ってもいなかったが、老人になったらばこんな商売も出来ないであろうとは察していた。今のうちから覚悟して、ほかの商売をはじめる元手でも稼ぎためるか、廉い田地でも買うことにするか、なんとかして老後の生計《たつき》を考えておかなければなるまいと思って、それを夫に相談すると、蛇吉はうなずいた。
「おれはどうでもいいが、お前が困るようなことがあってはならない。そのつもりで今のうちに精々かせいでおくかな。」
彼はまた、こんなことを話した。
「村の人はみんな知っていることだが、家《うち》のおふくろが死ぬ少し前に、おれは怖しいうわばみに出逢って、あぶなくこっちが負けそうになった。相手が三本目の筋まで平気で乗り越して来た時には、おれももう途方にくれてしまったが、その時、ふっと思い出したのは、死んだ親父の遺言だ。おやじが大病で所詮むずかしいというときに、おれの亡い後、もし一生に一度の大難に出逢ったらば、おれの名を呼んでこういう呪文《じゅもん》を唱えろ。おれがきっと救ってやるよ。しかし二度はならない。一生に一度ぎりだぞと、くれぐれも念を押して言い残されたことがある。おれはそれを思い出したので、半分は夢中で股引をぬいで、おやじの名を呼んで呪文を唱えながら、それをまっ二つに引裂くと、不思議に相手もまっ二つに裂けて死んだ。どういう料簡で、おれが股引を引裂いたのか、自分にもわからない。たぶん死んだ親父がそうしろと教えてくれたのだろう。家へ帰ってその話をすると、おふくろは喜びもし嘆きもした。一生に一度という約束を果してしまったから、お父《とっ》さんも二度とおまえを救っては下さるまい。これからはそのつもりで用心しろと言った。その当座はそれほどにも思わなかったが、このごろはそれが思い出されて、なんだか馬鹿に気が弱くなってならない。なに、おれ一人ならばどうにでもなるが、お前のことを考えると、うかうかしてはいられない。」
何につけても自分を思ってくれる夫の親切を、お年は身にしみて嬉しく感じた。
三
ふたりが同棲してから四度目の夏が来た。ことしは隣り村に大きいうわばみが出て、田畑をあらし廻るので、男も女もみな恐れをなして、野良《のら》仕事に出る者もなくなった。このままにしておいては田畑に草が生えるばかりであるから、なんとかしてうわばみ退治の方法をめぐらさなければならないと、村じゅうがあつまって相談の末に、かの蛇吉を頼んで来ることになった。首尾よく退治すれば金一両に米三俵を付けてくれるというのであったが、その相談を蛇吉は断った。
隣り村ではよくよく困ったとみえて、さらに庄屋のところへ頼んで来て、お前さんから何とか蛇吉を説得してもらいたいと言い込んだ。隣り村の難儀を庄屋も気の毒に思って、あらためて自分から蛇吉に言い聞かせると、彼はやはり断った。今度の仕事はどうも気乗りがしないから勘弁してくれと言ったが、庄屋はそれを許さなかった。
「おまえも商売ではないか。金一両に米三俵をくれるという仕事をなぜ断る。第一に隣り同士の好誼《よしみ》ということもある。五年前、こっちの村に水の出た時には、隣り村の者が来て加勢してくれたことをお前も知っているはずだ。言わばお互いのことだから、むこうの難儀をこっちがただ見物していては義理が立たない。誰にでも出来ることならば他の者をやるが、こればかりはお前でなければならないから、わたしもこうして頼むのだ。どうぞ頼まれて行ってくれ。」
こう言われると、蛇吉もあくまで強情を張っているわけにもいかなくなった。彼はとうとう無理往生に承知させられることになったが、家へ帰っても何だか沈み勝であった。あくる朝、身支度をして出てゆく時にも、なみだを含んで妻に別れた。
隣り村ではよろこんで彼を迎えた。彼は庄屋の家へ案内されていろいろの馳走になった上で、いつもの通り、うわばみ退治の用意に取りかかったが、彼がこの村へ足を踏み込んでから、かのうわばみは一度もその姿をみせなくなった。蛇吉の来たのを知って、さすがのうわばみも遠く隠れたのではあるまいかなどと言う者もあったが、相手が姿をみせない以上、それを釣り出すよりほかはないので、蛇吉は蛇の出そうな場所を見立てて、そこに例のおとし穴をこしらえて、例の秘密の一薬を焼いた。しかもそれは何の効もなかった。小蛇一匹すらもその穴には墜ちなかった。
折角来たものであるから、もう少し辛抱してくれと引留められて、蛇吉はここに幾日かを暮らしたが、うわばみは遂にその姿をあらわさなかった。おとし穴にもかからなかった。
「あまり遅くなると、家の方でも案じましょうから、わたしはもう帰ります。」と、彼は十一日目の朝になって、どうしても帰ると言い出した。
相手の方でもいつまで引留めておくわけにはいかないので、それではまたあらためてお願い申すということになって、村方から彼に二歩の礼金をくれた。うわばみ退治に成功しなかったが、ともかくも彼がここへ来てから、その姿を見せなくなったのは事実である。殊に十日以上の暇をつぶさせては、このまま空手《からて》で帰すことも出来ないので、その礼心にそれだけの金を贈ったのである。
「なんの役にも立たないでお気の毒ですが、折角のお志だから頂きます。」
彼はその金を貰って出ようとする時、村の者の一人があわただしく駈けて来て、山つづきの藪ぎわに大きいうわばみが姿をあらわしたと注進したので、一同はにわかに色めいた。
「もう一と足で吉さんを帰してしまうところであった。さあ、どうぞ頼みます。」
もともとそれがため来たのであるから、蛇吉も猶予することは出来なかった。彼はすぐに身ごしらえをして、案内者と一緒にその場へ駈けつけると、果して大蛇は藪から半身をあらわして眠ったように腹這っていた。
蛇吉は用意の粉薬を取出して、川という字を横にしたような三本の線を地上に描いた。彼は第一線を前にして突っ立ちながら、なにか大きな叫び声をあげると、今まで眠っていたようなうわばみは眼をひからせて頭をあげた。と思うと、たちまちに火焔《ほのお》のような舌を吐きながら、蛇吉の方へ向ってざらざらと走りかかって来たが、第一線も第二線もなんの障碍《しょうがい》をなさないらしく、敵はまっしぐらにそれを乗り越えて来た。第三線もまた破られた。
蛇吉は先度のように呪文を唱えなかった。股引も脱がなかつた。彼は持っている手斧をふりあげて正面から敵の真っ向を撃った。その狙いは狂わなかったが、敵はこの一と撃ちに弱らないらしく、その強い尾を働かせて彼の左の足から腰へ、腰から胸へと巻きついて、人の顔と蛇の首とが摺れ合うほどに向い合った。もうこうなっては組討のほかはない。蛇吉は手斧をなげ捨てて、両手で力まかせに蛇の喉首を絞めつけると、敵も満身の力をこめて彼のからだを締め付けた。
この怖ろしい格闘を諸人は息をのんで見物していると、敵の急所を掴んでいるだけに、この闘いは蛇吉の方が有利であった。さすがの大蛇も喉の骨を挫かれて、次第々々に弱って来た。
「こいつの尻尾《しっぽ》を斬ってくれ。」と、蛇吉は呶鳴った。
大勢のなかから気の強い若者が駈け出して行って、鋭い鎌の刃で蛇の尾を斬り裂いた。尾を斬られ頸を傷められて、大蛇《だいじゃ》もいよいよ弱り果てたのを見て、さらに五、六人が駈け寄って来て、思い思いの武器をふるったので、大蛇は蟻《あり》にさいなまれるみみず[#「みみず」に傍点]のようにのたうち廻って、その長いなきがらを朝日の下にさらした。
それと同時に、蛇吉も正気をうしなって大地に倒れた。
彼は庄屋の家《うち》へかつぎ込まれて、大勢の介抱をうけてようやくに息をふき返した。別に怪我をしたというでもないが、彼はひどく衰弱して、ふたたび起きあがる気力もなかった。
蛇吉は戸板にのせて送り帰されたときに、お年は声をあげて泣いた。村の者もおどろいて駈け付けて来た。自分が無理にすすめて出してやって、こんなことになったのであるから、庄屋はとりわけて胸を痛めて、お年をなぐさめ、蛇吉を介抱していると、彼は譫言《うわごと》のように叫んだ。
「もういいから、みんな行ってくれ、行ってくれ。」
彼は続けてそれを叫ぶので、病人に逆らうのもよくないから一とまずここを引取ろうではないかと庄屋は言い出した。親類の重助をひとりあとに残して、なにか変ったことがあったらばすぐに知らせるようにお年にも言い聞かせて、一同は帰った。
朝のうちは晴れていたが、午後から陰って蒸し暑く、六月なかばの宵は雨になった。お年と重助はだまって
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