すと見るや、彼は手早くその半股引をぬぎ取って、なにか呪文のようなことを唱えて跳り上がりながら、その股のまん中から二つに引裂くと、そのうわばみも口の上下から二つに裂けて死んだ。蛇吉はひどく疲れたように倒れてしまったが、人々に介抱されてやがて正気にかえった。
その以来、人々はいよいよ蛇吉を畏敬するようになった。彼が振りまく粉薬も一種の秘薬で、蛇を毒するものに相違ない。その毒に弱るところを撃ち殺すという、その理屈は今までにも大抵判っていたが、今度のことは何とも判断が付かなかった。九死一生の場になって、彼がなにかの呪文を唱えながら自分の股引を二つに引裂くと、蛇もまた二つに引裂かれて死んだ。
こうなると、一種の魔法といってもよい。もちろん、彼に訊いたところで、その説明をあたえないのは知れ切っているので、誰もあらためて詮議する者もなかったが、彼はどうもただの人間ではないらしいという噂が、諸人の口から耳へとささやかれた。
「蛇吉は人間でない。あれは蛇の精だ。」
こんなことを言う者も出て来た。
二
人間でも、蛇の精でも、蛇吉の存在はこの村の幸いであるから、誰も彼に対して反感や敵意をいだく者もなかった。万一彼の感情を害したら、どんな祟りをうけるかも知れないという恐怖もまじって、人々はいよいよ彼を尊敬するようになった。かの股引の一件があってから半年ほどの後に、蛇吉の母は頓死のように死んで、村じゅうの人々からねんごろに弔《とむら》われた。
母のないあとは蛇吉ひとりである。かれはもう三十を一つ二つ越えている。本来ならばとうに嫁を貰っているはずであるが、なにぶんにも蛇吉という名がわずらいをなして、村内はもちろん、近村からも進んで縁談を申込む者はなかった。彼は村の者からも尊敬されている。うわばみの種の尽きない限りは、その生活も保証されている。しかも彼と縁組をするということになると、さすがに二の足を踏むものが多いので、彼はこの年になるまで独身であった。
「今まではおふくろがいましたから何とも思わなかったが、自分ひとりになるとどうもさびしい。第一に朝晩の煮炊きにも困ります。誰か相当の嫁をお世話下さいませんか。」と、彼はあるとき庄屋の家へ来て頼んだ。
庄屋も気の毒に思った。なんのかのと陰口《かげぐち》をいうものの、かれは多年この村のためになってくれた男である。ふだんの行状も別に悪くはない。それが母をうしなって不自由であるから嫁を貰いたいという。まことに道理《もっとも》のことであるから、なんとかしてやろうと請け合っておいて、村の重立った者にそれを相談すると、誰も彼も首をかしげた。
「まったくあの男も気の毒だがなあ。」
気の毒だとは言いながら、さて自分の娘をやろうとも、妹をくれようともいう者はないので、庄屋も始末に困っていると、そのなかで小利口な一人がこんなことを言い出した。
「では、どうだろう。このあいだから重助の家に遠縁の者だとかいって、三十五六の女がころげ込んでいる。なんでもどこかのだるま茶屋に奉公していたとかいうのだが、重助に相談してあの女を世話してやることにしては……。」
「だが、あの女には悪い病いがあるので、重助も困っているようだぞ。」と、またひとりが言った。
「しかし、ともかくもそういう心あたりがあるなら、重助をよんで訊いてみよう。」
庄屋はすぐに重助を呼んだ。彼は、水呑み百姓で、一家内四人の暮らしさえも細ぼそであるところへ、この間から自分の従弟《いとこ》の娘というのが転げ込んで来ているので、まったく困るとこぼし抜いていた。娘といってもことし三十七で、若いときから身持が悪くて方々のだるま茶屋などを流れ渡っていたので、重い瘡毒《かさ》にかかっている。それで、もうどこにも勤めることが出来なくなったので、親類の縁をたよって自分の家へ来ているが、達者なからだならば格別、半病人で毎日寝たり起きたりしているのであるから、世話が焼けるばかりで何の役にも立たない。と、かれは庄屋の前で一切《いっさい》を打明けた。
「半病人では困るな。」と、庄屋も顔をしかめた。「実は嫁の相談があるのだが……。」
「あんな奴を嫁に貰う人がありますかしら。」と、重助は不思議そうに訊いた。
「きっと貰うかどうかは判らないが、あの吉次郎が嫁を探しているのだ。」
「はあ、あの蛇吉ですか。」
蛇吉でも何でも構わない。あんな奴を引取ってくれる者があるならば、どうぞお世話をねがいたいと重助はしきりに頼んだ。しかし半病人ではどうにもならないから、いずれ達者な体になってからの相談にしようと、庄屋は彼に言い聞かせて帰した。
それから半月ほど経って、重助は再び庄屋の家へ来て、女の病気はもう癒ったからこのあいだの話をどうぞまとめてくれと言った。彼は余程その女の始末に困っているら
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