ますと、孝平も青くなって慄《ふる》えあがりました。こんなものを残しておくのはよくないから、いっそ打毀《ぶちこわ》して焚いてしまおうと父が言いますと、もともと十五銭で買ったものですから、孝平にも異存はありません。父と二人で庭先へ出て、その仮面をいくつにも叩き割って、火をかけてすっかり焼いた上で、その灰は隅田川に流してしまいました。
「それにしても、その古道具屋というのは変な奴ですね。あなたに面を売ったのと同じ人間だかどうだか、念のために調べて見ようじゃありませんか。」
 孝平は父を誘い出して、その晩わざわざ山の手まで登って行きましたが、四谷の大通りにそんな古道具屋の夜店は出ていませんでした。ここの処に出ていたと孝平の教えた場所は、丁度かの井田さんの質屋のそばであったので、さすがの父もなんだかいやな心持になったそうです。母はその後どうということもありませんでしたが、だんだんにからだが弱くなりまして、それから三年目に亡くなりました。

「お話はこれだけでございます。その猿の眼には何か薬でも塗ってあったのではないかと言う人もありましたが、それにしても、その仮面が消えたり出たりしたのが判りません。井田さんの髪の毛を掻きむしったり、母の髻《たぶさ》を掴んだりしたのも、何者の仕業《しわざ》だか判りません。いかがなものでしょう。」
「まったく判りませんな。」
 青蛙堂主人も溜息まじりに答えた。
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   蛇精《じゃせい》


     一

 第五の男は語る。

 わたしの郷里には蛇に関する一種の怪談が伝えられている。勿論、蛇と怪談とは離れられない因縁になっていて、蛇に魅《みこ》まれたとか、蛇に祟《たた》られたとかいうたぐいの怪談は、むかしから数え尽されないほどであるが、これからお話をするのは、その種の怪談と少しく類を異《こと》にするものだと思ってもらいたい。
 わたしの郷里は九州の片山里《かたやまざと》で、山に近いのと気候のあたたかいのとで蛇の類がすこぶる多い。しかしその種類は普通の青大将や、やまかがし[#「やまかがし」に傍点]や、なめら[#「なめら」に傍点]や、地もぐり[#「地もぐり」に傍点]のたぐいで、人に害を加えるようなものは少ない。蝮《まむし》に咬まれたという噂を折りおりに聞くが、かのおそろしいはぶ[#「はぶ」に傍点]などは棲んでいない。蠎蛇《うわばみ》にはかなり大きいのがいる。近年はだんだんにその跡を絶ったが、むかしは一丈五尺|乃至《ないし》二丈ぐらいのうわばみが悠々とのたくっていたということである。
 その有害無害は別として、誰にでも嫌われるのは蛇である。ここらの人間は子供のときから見馴れているので、他国の者ほどにはそれを嫌いもせず、恐れもしないのであるが、それでも蝮とうわばみだけは恐れずにはいられない。蝮は毒蛇であるから、誰でも恐れるのは当然であるが、しかしここらでは蝮のために命をうしなったとか、不具《かたわ》になったとかいう例は甚だ少ない。むかしから皆その療治法を心得ていて、蝮にかまれたと気が付くとすぐに応急の手当を加えるので、大抵は大難が小難ですむらしい。殊に蝮は紺の匂いを嫌うというので、蝮の多そうな山などへはいるときには紺の脚絆《きゃはん》や紺足袋をはいて、樹の枝の杖などを持って行って、見あたり次第にぶち殺してしまうのである。ほかの土地には蝮捕りとか蛇捕りとかいう一種の職業があるそうであるが、ここらにそんな商売はない。蛇を食う者もない。まむし酒を飲む者もない。ただぶち殺して捨てるだけである。
 蝮は山ばかりでなく、里にもたくさん棲んでいるが、馴れている者は手拭をしごいて二つ折りにして、わざとその前に突きつけると、蝮は怒ってたちまちにその手拭にかみつく。その途端にぐいと引くと白髪《しらが》のような蝮の歯は手拭に食い込んだままで、もろくも抜け落ちてしまうのである。毒牙をうしなった蝮は、武器をうしなった軍人と同じことで、その運命はもう知れている。こういうわけであるから、ここらの人間はたとい蝮を恐れるといっても、他国の者ほどには強く恐れていない。かれは一面に危険なものであると認められていながら、また一面には与《くみ》し易きものであると侮られてもいる。蝮が怖いなどというと笑われるくらいである。
 しかし、かのうわばみにいたっては、蝮と同日《どうじつ》の論ではない。その強大なるものは家畜を巻き殺して呑む。あるときは、子供を呑むこともある。それを退治するのは非常に困難で、前にいった蝮退治のような手軽の事では済まないのであるから、ここらの人間もうわばみに対してはほんとうに恐れている。その恐怖から生み出された古来の伝説がまたたくさんに残っていて、それがいよいよ彼らの恐怖を募らせているらしい。
 それがために、いつの代から始ま
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