った。夜がふけても彼は帰って来なかった。彼は宿の者が言うように、どこかの石門の下でこの寒い雨の夜にお籠《こも》りでもしているのであろうか、なにかの行法を修しているのであろうか。
そんなことを考えつづけながら、僕はその一夜をおちおち眠らずに明かしてしまった。夜があけると雨はやんでいた。あさ飯を食ってしまうと、僕は宿の者ふたりと案内者一人とを連れて、赤座のゆくえを探しに出た。
ゆうべの一本杉の茶屋まで行きつく間、我れわれは木立ちの奥まで隈なく探してあるいたが、どこにも彼の姿は見付からなかった。ゆうべ無暗に駈け歩いたせいか、けさは妙に足がすくんで思うように歩かれないので、僕はこの茶屋でしばらく休息することにして、他の三人は石門をくぐって登った。それから三十分と経たないうちに、そのひとりが引っ返して来て、蝋燭岩から谷間へころげ落ちている男の姿を発見したと、僕に報告してくれた。僕は跳ねあがるように床几《しょうぎ》を離れて、すぐに彼と一緒に第一の石門をくぐった。
茶屋の者は僕の宿へその出来事をしらせに行った。
三
宿からも手伝いの男が駈けつけて来て、ともかくも赤座の死体を宿まで運んで来たのは、午前十一時にちかい頃であった。雨あがりの初冬の日はあかるく美しくかがやいて、杉の木立ちのなかでは小鳥のさえずる声がきこえた。
「あ。」
こう言ったままで、僕はしばらくその死体を見つめていた。男の死体は岩石で額を打たれて半面に血を浴びているのと、泥や木の葉がねばり着いているのとで、今まではその人相をよくも見とどけずに、その服装によって一途《いちず》にそれが赤座であると思い込んでいたのであったが、宿へ帰って入口の土間にその死体を横たえて、僕もはじめて落着いて、もう一度その顔をのぞいてみると、それは確かに赤座でない、かつて見たこともない別人であった。そんなはずはないといぶかりながら、あかるい日光のもとで横からも縦《たて》からも覗いたが、彼はどうしても赤座ではなかった。
「どういう訳だろう。」
僕は夢のような心持で、その死体をぼんやり眺めていた。勿論、きのうはもう薄暗い時刻であったが、僕をたずねて来た赤座の服装はたしかにこれであった。死体は洋服をきて、靴下に草鞋《わらじ》を穿いているばかりか、谷間で発見した中折帽子までも、僕がきのうの夕方に見たものと寸分違わないように思われた。それでもまだこんな疑いがないでもなかった。登山者の服装などはどの人もたいてい似寄っているから、あるいはきのう僕が見た赤座とは全く別人であるかも知れない。その事実をたしかめるために、僕はなにかの手がかりを得ようとして、死体のかくしをあらためると、まず僕の手に触れたものは皺だらけの原稿紙であった。
原稿紙――それは妙義神社の前で、赤座の指の傷をおさえるために、僕の袂から出してやった原稿紙ではないか。しかも初めの二、三行には僕のペンの痕がありありと残っているではないか。僕は更に死体の手先をあらためると、右の人差指と中指には、摺りむいたような傷のあとが残っている。原稿紙にも血のあとがにじんでいる。こういう証拠が揃っている以上は、ゆうべの男はたしかにこの死体に相違ない。それを赤座だと思ったのは僕のあやまりであろうか。しかし彼は僕をたずねて来たのである。うす暗がりではあったが、僕もたしかに彼を赤座と認めた。それがいつの間にか別人に変っている。どう考えてもその理屈がわからないので、僕はいよいよ夢のような心持で、手に握った原稿紙と死体の顔とをいつまでもぼんやりと見くらべていた。
駐在所の巡査も宿屋の者も、僕の説明を聴いて不思議そうに首をかしげていた。たしかに不思議に相違ない。この奇怪な死人は蟇口に二円あまりの金を入れているだけで、ほかには何の手がかりとなるような物も持っていなかった。彼は身許不明の死亡者として町役場へ引渡された。
これでこの事件はひとまず解決したのであるが、僕の胸に大きく横たわっている疑問は決して解決しなかった。僕はすぐに越後へ手紙を送って、赤座の安否を聞き合せると、兄からも妹からも何の返事もなかった。
疑いはますます大きくなるばかりで、僕はなんだか落着いていられないので、とうとう思い切って彼の郷里までたずねて行こうと決心した。幸いにここからはさのみ遠いところではないので、僕は妙義の山を降って松井田から汽車に乗って、信州を越えて越後へはいった。○○教の支社をたずねて、赤座朔郎に逢いたいと申入れると、世話役のような男が出て来て、講師の赤座はもう死んだというのであった。いや、赤座ばかりでない、妹の伊佐子もこの世にはいないというのを聞かされて、僕は頭がぼうとする程に驚かされた。
赤座の兄妹はどうして死んだか。その事情については、世話役らしい男もとかくに言い
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