宿の者となにか例のおしゃべりをしている最中であったので、坐ったままで身体をねじむけて表の方を覗いてみると、入口に立っているのはかの赤座であった。彼は古ぼけた中折帽子をかぶって、洋服のズボンをまくりあげて、靴下の上に草鞋《わらじ》を穿いて、手には木の枝をステッキ代りに持っていた。
「やあ。よく来たね。さあ、はいりたまえ。」
 僕は片膝を立てながら声をかけると、赤座は懐かしそうな眼をして僕の方をじっと見ながら、そのまま引っ返して表の方へ出てゆくらしい。連れでも待たせてあるのかと思ったが、どうもそうではないらしいので、僕はすこし変に思ってすぐに起《た》って入口に出ると、赤座は見返りもしないで山の方へすたすた登ってゆく。僕はいよいよおかしく思ったので、そこにある宿屋の藁草履を突っかけて彼のあとを追って出た。
「おい、赤座君。どこへ行くんだ。おい、おい、赤座君。」
 赤座は返事もしないで、やはり足を早めてゆく。僕は彼の名を呼びながら続いて追ってゆくと、妙義の社《やしろ》のあたりで彼のすがたを見失ってしまった。陰った冬の日はもう暮れかかって、大きい杉の木立ちのあいだはうす暗くなっていた。僕は一種の不安に襲われながら、声を張りあげてしきりに彼の名を呼んでいると、杉のあいだから赤座は迷うように、ふらふらと出て来た。
「寒い、寒い。」と、彼は口の中で言った。
「寒いとも……。日が暮れたら急に寒くなる。早く宿へ来て炉の火にあたりたまえ。それとも先にお詣りをして行くのか。」
 それには答えないで、彼は無言で右の手を僕のまえにつき出した。薄暗いなかで透かしてみると、その人差指と中指とに生血《なまち》がにじみ出しているらしかった。木の枝にでも突っかけて怪我をしたのだろうと察したので、僕は袂をさぐって原稿紙の反古《ほご》を出した。
「まあ、ともかくもこれで押さえておいて、早く宿へ来たまえよ。」
 彼はやはりなんにも言わないで、僕の手からその原稿紙を受取って、自分の右の手の甲を掩ったかと思うと、またそのまますたすたあるき出した。あと戻りをするのではなく、どこまでも山の上を目ざして登るらしい。僕はおどろいてまた呼び止めた。
「おい、君。これから山へ登ってどうするんだ。山へはあした案内する。きょうはもう帰る方がいいよ。途中で暗くなったら大変だ。」
 こんな注意を耳にもかけないように、赤座は強情に登ってゆく。僕はいよいよ不安になって、幾たびか呼び返しながらそのあとを追って行った。八月以来ここらの山路には歩き馴れているので、僕もかなりに足が早いつもりであるが、彼の歩みはさらに早い。わずかのうちに二間離れ、三間離れてゆくので、僕は息を切って登っても、なかなか追い付けそうもない。あたりはだんだんに暗くなって、寒い雨がしとしとと降って来る。勿論、ほかに往来の人などのあろうはずもないので、僕は誰の加勢を頼むわけにもいかない。薄暗いなかで彼のうしろ姿を見失うまいと、梟《ふくろう》のような眼をしながら唯ひとりで一生懸命に追いつづけたが、途中の坂路の曲り角でとうとう彼を見はぐってしまった。
「赤座君。赤座君。」
 僕の声はそこらの森に谺《こだま》するばかりで、どこからも答える者はなかった。それでも僕は根《こん》よく追っかけて、とうとう一本杉の茶屋の前まで来たが、赤座の姿はどうしても見付からないので、僕の不安はいよいよ大きくなった。茶屋の人を呼んで訊ねてみたが、日は暮れている、雨はふる、誰も表には出ていないので、そんな人が通ったかどうだか知らないという。これから先は妙義の難所で、第一の石門はもう眼の前にそびえている。いくら土地の勝手を知っていても、この暗がりに石門をくぐってゆくほどの勇気はないので、僕はあきらめて立ち停まった。
 路はいよいよ暗くなったので、僕は顔なじみの茶屋から提灯を借りて、雨のなかを下山した。雨具をつけていない僕は頭からびしょ濡れになって、宿へ帰りつく頃には骨まで凍りそうになってしまった。宿でも僕の帰りの遅いのを心配して、そこらまで迎えに出ようかと言っているところであったので、みんなも安心してすぐに炉のそばへ連れて行ってくれた。ぬれた身体を焚火にあたためて、僕は初めてほっとしたが、赤座に対する不安は大きい石のように僕の胸を重くした。僕の話をきいて宿の者も顔をしかめたが、その中には、こんな解釈をくだすものもあった。
「そういうお宗旨の人ならば、なにかの行《ぎょう》をするために、わざわざ暗い時刻に山へ登ったのかも知れません。山伏や行者のような人は時々にそんなことをしますから。」
 二月の大雪のなかを第二の石門まで登って行った行者のあったことを宿の者は話した。しかしさっき出逢ったときの赤座の様子から考えると、彼はそんな行者のような難行苦行をする人間らしくも思われなか
前へ 次へ
全64ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング