も馬もその魂を作品の方に奪われてしまって、わが身はどこへか消え失せたのではないかなどと言う者もありました。それからまた付会《ふかい》して、今度の木馬も時どきにいななくとか、木像の捨松が口をきいたとか、いろいろの噂が伝えられるようになりました。
 そこで、その名人の仏師はどうしたかというと、その後の消息はよく判りません。どうも平泉で殺されたらしいということです。なにしろここで木像と木馬を作るために五カ月を費したので、平泉へ到着するのが非常におくれた。それが秀衡の感情を害した上に、仕事に取りかかってからも、一向に捗《はか》がゆかない。まるで気ぬけのした人間のように見えたので、いよいよ秀衡の機嫌を損じて、とうとう殺されてしまったという噂です。彼が立ちぎわに髭を残して行ったのから考えると、自分自身にも内々その覚悟があったのかも知れません。かの池を以前は単に龍の池と呼んでいたのですが、この事件があって以来、さらに馬という字を付け加えて、龍馬の池と呼ぶようになったのだそうです。」
「で、その木像と木馬も今も残っているのですか。」と、わたしはこの話の終るのを待ちかねて訊きました。
「それにはまたお話があります。」と、横田君は静かに言いました。「あとで聞くと、その祐慶という仏師は日本の人ではなく、宋《そう》から渡来した者だそうです。日本人ならば髪を切りそうなところを、髭を切って残したというのから考えても、なるほど唐《から》の人らしく思われます。それから七八百年の月日を過ぎるあいだに、土地にもいろいろの変遷があって、黒太夫の家は単に黒屋敷跡という名を残すばかりで、とうの昔にほろびました。龍馬の池も山崩れや出水のためにいくたびかその形をかえて、今では昔の半分にも足らないほどに小さくなってしまいました。それでも龍神の社だけは江戸の末まで残っていたのですが、明治元年の奥羽戦争の際には、この白河が東軍西軍の激戦地となったので、社も焼かれてしまいました。もうその跡に新しく建てるものもないので、そこらは雑草に埋められたままです。」
「そうすると、かの木馬も一緒に焼けてしまったのですね。」
「誰もまあそう思っていたのです。したがって、そのゆくえを詮議する者もなかったのですが、それからおよそ四十年ほども過ぎて、日露戦争の終った後のことです。この白河出身の者で、今は南京に雑貨店を開いている堀井という男が、なにかの商売用で長江《ちょうこう》をさかのぼって蜀《しょく》へゆくと、成都の城外――と言っても、六、七里も離れた村だそうですが、その寂しい村の川のほとりに龍王廟というのがある。その古い廟の前に大きい柳が立っていて、柳の下に木馬が据えてある。木馬はともかくも、その馬の手綱を控えている少年の木像が確かに日本人に相違ないので、堀井も不思議に思いました。
 もちろん堀井は明治以後に生れた男で、龍馬の池の木像も木馬も見たことはないのですが、かねて話に聴いているものによく似ているばかりか、その木像の顔容《かおだち》や風俗が日本の少年であるということが、大いに彼の注意をひきました。土地の者についていろいろ聞合せてみましたが、いつの頃にどうして持って来たのか一向にわからない。
 結局、不得要領で帰って来たそうですが、どうしてもそれは日本のものに相違ないと堀井は主張していました。もし果してそれが本当であるとすれば、木馬や木像が自然に支那まで渡ってゆくはずがありませんから、戦争のどさくさまぎれに誰かが持出して、横浜あたりにいる支那人にでも売渡したのではあるまいかとも想像されますが、実物大の木像や木馬をどうして人知れずに運搬したか、それが頗る疑問です。それを作った仏師が支那の人であるからといって、木像や木馬が何百年の後、自然に支那へ舞い戻ったとも思われません。なにしろ堀井という男は龍馬の池の実物を見ていないのですから、いかに彼が主張しても、果してそれが本物であるかどうかも疑問です。」
 それからそれへと拡がってゆく奇怪の物がたりを、わたしは黙って聞いているのほかはありませんでした。横田君は最後にまたこう言いました。
「今まで長いお話をしましたが、近年になって、かの龍馬の池に新しい不思議が発見されたのです。」
 まだ不思議があるのかと、わたしも少し驚いて、やはり黙って相手の顔をながめていました。二人のあいだに据えてある火鉢の火がとうに灰になっているのをお互いに気がつかないのでした。
「あなたを御案内したいというのも、それがためです。」と、横田君は言いました。「今から七年ほど前のことです。宮城県の中学の教師が生徒を連れて来たときに、龍馬の池のほとりで写真を撮ってあとで現像してみると、馬の手綱を取った少年の姿が水の上にありありと浮かび出しているので、非常に驚いたといいます。その噂が伝わって
前へ 次へ
全64ページ中62ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング