り手広くやっていましたので、店のことは番頭どもに大抵任せておきまして、主人とはいいながら、曽祖父の増右衛門は自分の好きな俳諧をやったり、書画骨董などをいじくったりして、半分は遊びながら世を送っていたらしいのです。そういう訳でしたから、書家とか画家とか俳諧師という人たちが北国の方へ旅まわりして来ると、きっとわたくしの家へ草鞋《わらじ》をぬぐのが習いで、中には二月も三月も逗留して行くのもあったといいます。
このお話の時分にも、やはりふたりの客が逗留していました。ひとりは名古屋の俳諧師で野水《やすい》といい、ひとりは江戸の画家で文阿《ぶんあ》という人で、文阿の方が二十日《はつか》ほども先に来て、ひと月以上も逗留している。野水の方はおくれて来て、半月ばかりも逗留している。そこで、なんでも九月のはじめの晩のことだといいます。主人の増右衛門が自分の知人でやはり俳諧や骨董の趣味のあるもの四人を呼びまして、それに、野水と文阿を加えて主人と客が七人、奥の広い座敷で酒宴を催すことになりました。
呼ばれた四人は近所の人たちで、暮れ六つごろにみな集まって来ました。お膳を据える前に、まずお茶やお菓子を出して、七人がいろいろの世間話などをしているところへ、ぶらりとたずねて来たのは坂部|与茂四郎《よもしろう》という浪人でした。浪人といっても、羊羹色の黒羽織などを着ているのではなく、なかなか立派な風をしていたそうです。
御承知でもございましょうが、江戸時代にはそこらは桑名藩の飛地《とびち》であったそうで、町には藩の陣屋がありました。その陣屋に勤めている坂部与五郎という役人は、年こそ若いがたいそう評判のよい人であったそうで、与茂四郎という浪人はその兄《あに》さんに当るのですが、子供のときからどうもからだが丈夫でないので、こんにちでいえばまあ廃嫡というようなわけになって、次男の与五郎が家督を相続して、本国の桑名からここの陣屋詰を申付かって来ている。
兄さんの与茂四郎は早くから家を出て、京都へのぼって或る人相見のお弟子になっていたのですが、それがだんだんに上達して、今では一本立ちの先生になって諸国をめぐりあるいている。人相を見るばかりでなく、占いもたいそう上手だということで、この時は年ごろ三十二三、やはり普通の侍のように刀をさしていて、服装《みなり》も立派、人柄も立派、なんにも知らない人には、立派なお武家さまとみえるような人物でしたから、なおさら諸人が尊敬したわけです。
その人が諸国をめぐって信州から越後路へはいって、自分の弟が柏崎の陣屋にいるのをたずねて来て、しばらくそこに足をとめている。曽祖父の増右衛門もふだんから与五郎という人とは懇意にしていましたので、その縁故から兄の与茂四郎とも自然懇意になりまして、時どきはこちらの家へも遊びに来ることがありました。今夜も突然にたずねて来たのです。こちらから案内したのではありませんが、丁度よいところへ来てくれたといって、増右衛門はよろこんで奥へ通しました。
「これはお客来の折柄、とんだお邪魔をいたした。」と与茂四郎は気の毒そうに座に着きました。
「いや、お気の毒どころではない。実はお招き申したいくらいであったが、御迷惑であろうと存じて差控えておりましたところへ、折よくお越しくだされて有難いことでございます。」と、増右衛門は丁寧に挨拶して、一座の人々をも与茂四郎に紹介しました。勿論、そのなかには、前々から顔なじみの人もありますので、一同うちとけて話しはじめました。
よいところへよい客が来てくれたと主人は喜んでいるのですが、不意に飛入りのお客がひとり殖えたので、台所の方では少し慌てました。前に申上げた祖母のお初はまだ十八の娘で、今夜のお給仕役を勤めるはずになっているので、なにかの手落ちがあってはならないと台所の方へ見まわりに行きますと、お料理はお杉という老婢《ばあや》が受持ちで、ほかの男や女中たちを指図して忙しそうに働いていましたが、祖母の顔をみると小声で言いました。
「お客さまが急にふえて困りました。」
「間に合わないのかえ。」と、祖母も眉をよせながら訊きました。
「いえ、ほかのお料理はどうにでもなりますが、ただ困るのは蟹でございますよ。」
増右衛門はふだんから蟹が大好きで、今夜の御馳走にも大きい蟹が出るはずになっているのですが、主人と客をあわせて七人前のつもりですから、蟹は七匹しか用意してないところへ、不意にひとりのお客がふえたのでどうすることも出来ない。
出入りの魚屋《さかなや》へ聞き合せにやったが、思うようなのがない。なにぶんにも物が物ですから、その大小が不揃いであると甚だ恰好が悪い。あとできっと旦那さまに叱られる。台所の者もみな心配して、半兵衛という若い者がどこかで見付けて来るといってさっきから出て行
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