る。現に宝丹をのんで肺炎が癒ったなどという話もきいた。しかしこの娘の病気――殊にこの年頃でこの病気――それが普通の解熱剤ぐらいで救われようとは、とても想像の許さないところである。いっ時の気休めに過ぎない解熱剤の二日分や三日分を貰って、素人《しろうと》医者の前にひざまずいて拝謝する老人――彼は恐らくこの家の忠僕であろう。――その姿を見るに堪えないような悼《いた》ましい心持になって、僕はおもわず顔をそむけた。
「夜風に長く吹かれない方がいい。」
T君から注意されて、娘たちはうやうやしく黙礼して引っ返して行った。女三人は、初めから一度も口を利かなかったが、画燈のかげが遠く微かに消えて行くあいだに、娘の咳の声ばかりは時どきにひびいた。それを見送って、老人も僕たちに敬礼して立去った。
「可哀そうだな。あの娘も長くは生きられないぜ。」
今までは、どんな娘だろうなどと一種の興味をもって待ち受けていたのであるが、さてその本人の悼ましい姿をみせられると、僕たちももう笑ってはいられなくなった。四人は顔を見合せて一度に溜息をついた。竈の下の高粱もたいてい燃え尽してしまったので、再びそれを折りくべていると、門の外で何か笑う声がきこえて、ここへはいって来る足音がひびいたので、誰が来たのかと表をのぞいて見ると、ひとりの男が戸の外に立っていた。
「従軍記者諸君はおいでですか。」
「はあ。」と、僕は答えた。「わたしです。」
それが通訳のS君であることを知って、僕たちは愛想よく迎えた。
「Sさんですか。どうぞおはいりください。」
S君は会釈《えしゃく》して竈の前に来た。S君は軍隊付の支那通訳であるが、ふだんから非常にまじめな人で、且は親切にいろいろの通信材料を我れわれに提供してくれるので、我れわれ従軍記者のあいだにも尊敬されていた。今夜は何かの徴発のためにこの村へ来たところが、ある支那人から妙な話をきいたので、ここには一体誰が泊っているのかと見届けに来たというのである。
「ある家の若い支那人が、今夜この村の徐という家に泊った日本人がある。わたしが注意したけれども、肯《き》かないではいってしまったと言うのです。それはどんな人たちだと訊くと、新聞とかいた白い布《きれ》を腕にまいていたと言う。それでは従軍記者諸君に違いないが、いったい誰々だろうかと思って、ちょっとその顔ぶれを見に来たのですよ。」と、S君はまじめな顔に微笑を漂わせながら言った。
「若い支那人が……。」と、僕はすぐに思い出した。「では、家に妖ありと言うのじゃありませんか。」
「そうです。」と、S君はうなずいた。「支那人はしきりに止めたそうですが……。」
「止めたには止めたが、家に妖ありだけでは訳が判らないので、僕たちも取合わなかったのですが、その妖というのはどんな訳なのですかね。」と、僕は訊いた。
「では、その子細は御承知ないのですね。」
「彼はしきりにしゃべるのですが、僕たちは支那語が不十分の上に、相手は満洲なまりが強いと来ているので、なにを言っているのか一向わからないのです。要するに、ここの家には何か怪しいことがあるから泊るなと言うらしいのですが……。」
「そうです、そうです。」と、S君がまたうなずいた。「実はわたしも家に妖ありだけでは、なんのことだかよく判らなかったのです。それに、あなたの言う通り、あの若い支那人は訛りが強くて、わたしにもはっきりとは聴き取れなかったのですが、幸いにその祖父だという老人がいて、それがよく話してくれたので、その妖の子細が初めて判ったのです。」
如才《じょさい》のないT君が茶をこしらえて出すと、S君は、「やあ、御馳走さまです。」と喜んで飲んだ。実際、砂糖を入れた一杯の茶でも、戦地ではたいへんな御馳走である。S君はその茶をすすり終えて例のまじめな口調で「家有妖」の由来を説きはじめた。
夜になっても戦闘は継続しているらしい。天をつんざくような砲弾の音と、豆を煎るような小銃弾のひびきが、前方には遠く近くきこえている。それをよそにして、S君はこの暗い家のなかで妖を説くのである。我れわれ四人も彼を取巻いて、高粱の火の前でその怪談に耳をかたむけた。
三
「ここの家の姓は徐といいます。今から五代前、というと大変に遠い昔話のようですが、四十年ほど前のことだといいますから、日本では元治か慶応の初年、支那では同治三年か四年頃にあたるでしょう。丁度かの長髪賊の洪秀全《こうしゅうぜん》がほろびた頃ですね。」
S君はさすがに支那の歴史をそらんじていて、まずその年代を明らかにした。
「ここの家《うち》も現在は農ですが、その当時は瓦屋であったそうです。自分の家に竈《かまど》を設けて瓦を焼くのです。あまり大きな家ではない。主人と伜ふたりで焼いていた。それへ冬の日の夕方、なん
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