ましょう。一体この青蛙に対する伝説は杭州地方ばかりでなく、広東地方でも青蛙神といって尊崇しているようです。したがって、昔から青蛙についてはいろいろの伝説が残っています。勿論、その多くは怪談ですから、ちょうど今夜の席上にはふさわしいかも知れません。その伝説のなかでも成るべく風変わりのものをちょっとお話し申しましょう。」
星崎さんはひと膝ゆすり出て、まず一座の人々の顔をしずかに見まわした。その態度がよほど場馴れているらしいので、わたしも一種の興味をそそられて、思わずその人の方に向き直った。
支那の地名や人名は皆さんにお馴染みが薄くて、却って話の興をそぐかと思いますから、なるべく固有名詞は省略して申上げることにしましょう。と、星崎さんは劈頭《へきとう》にまず断った。
時代は明《みん》の末で、天下が大いに乱れんとする時のお話だと思ってください。江南の金陵、すなわち南京の城内に張訓という武人があった。ある時、その城をあずかっている将軍が饗宴をひらいて、列席の武官と文官一同に詩や絵や文章を自筆でかいた扇子一本ずつをくれた。一同ひどく有難がって、めいめいに披《ひら》いてみる。張訓もおなじく押し頂いて披《ひら》いて見ると、どうしたわけか自分の貰った扇だけは白扇で、なにも書いてない。裏にも表にもない。これには甚だ失望したが、この場合、上役の人に対して、それを言うのも礼を失うと思ったので、張訓はなにげなくお礼を申して、ほかの人たちと一緒に退出した。しかし何だか面白くないので、家へ帰るとすぐにその妻に話した。
「将軍も一度にたくさんの扇をかいたので、きっと書き落したに相違ない。それがあいにくにおれに当ったのだ。とんだ貧乏くじをひいたものだ。」
詰まらなそうに溜息をついていると、妻も一旦は顔の色を陰らせた。妻はことし十九で三年前から張と夫婦になったもので、小作りで色の白い、右の眉のはずれに大きいほくろ[#「ほくろ」に傍点]のある、まことに可愛らしい女であったが、夫の話をきいて少し考えているうちに、まただんだんにいつもの晴れやかな可愛らしい顔に戻って、かれは夫を慰めるように言った。
「それはあなたのおっしゃる通り、将軍は別に悪意があってなされた事ではなく、たくさんのなかですから、きっとお書き落しになったに相違ありません。あとで気がつけば取換えて下さるでしょう。いいえ、きっと取換えて
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