くださいます。」
「しかし気がつくかしら。」
「なにかの機《はずみ》に思い出すことがないとも限りません。それについて、もし将軍から何かお尋ねでもありましたら、そのときには遠慮なく、正直にお答えをなさる方がようございます。」
「むむ。」
 夫は気のない返事をして、その晩はまずそのままで寝てしまった。それから二日ほど経つと、張訓は将軍の前によび出された。
「おい、このあいだの晩、おまえにやった扇には何が書いてあったな。」
 こう訊かれて、張訓は正直に答えた。
「実は頂戴の扇面には何も書いてございませんでした。」
「なにも書いてない。」と、将軍はしばらく考えていたが、やがて、しずかにうなずいた。「なるほど、そうだったかも知れない。それは気の毒なことをした。では、その代りにこれを上げよう。」
 前に貰ったのよりも遥かに上等な扇子に、将軍が手ずから七言絶句《しちごんぜっく》を書いたのをくれたので、張訓はよろこんで頂戴して帰って、自慢らしく妻にみせると、妻もおなじように喜んだ。
「それだから、わたくしが言ったのです。将軍はなかなか物覚えのいいかたですから。」
「そうだ、まったく物覚えがいい。大勢のなかで、どうして白扇がおれの手にはいったことを知っていたのかな。」
 そうは言っても、別に深く詮索《せんさく》するほどのことではないので、それはまずそのままで済んでしまった。それから半年ほど経つと、かの闖賊《ちんぞく》という怖ろしい賊軍が蜂起して、江北は大いに乱れて来たので、南方でも警戒しなければならない。太平が久しくつづいて、誰も武具の用意が十分であるまいというので、将軍から部下の者一同に鎧一着ずつを分配してくれることになった。張訓もその分配をうけたが、その鎧がまた悪い。古い鎧が破れている。それをかかえて、家へ帰って、またもや妻に愚痴をこぼした。
「こんなものが、大事のときの役に立つものか。いっそ紙の鎧を着た方がましだ。」
 すると、妻はまた慰めるように言った。
「それは将軍が一々あらためて渡したわけでもないでしょうから、あとで気がつけばきっと取換えて下さるでしょう。」
「そうかも知れないな。いつかの扇子の例もあるから。」
 そう言っていると、果して二、三日の後に、張訓は将軍のまえに呼び出されて、この間の鎧はどうであったかと、また訊《き》かれた。張訓はやはり正直に答えると、将軍は子細
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