ちの様子をうかがうと、笛の音はやんでいる。小屋の入口には筵をおろして内はひっそりとしている。
 と思うと、内では低い唸《うな》り声がきこえた。それがだんだんに高くなって、弥次右衛門はしきりに苦しんでいるらしい。それは病苦でなくて、一種の悪夢にでもおそわれているらしく思われたので、喜兵衛はすこしく躊躇した。かの笛のために、彼はあしかけ十年のあいだ、絶えず苦しめられているという、さっきの話も思いあわされて、喜兵衛はなんだか薄気味悪くもなったのである。
 息をこらしてうかがっていると、内ではいよいよ苦しみもがくような声が激しくなって、弥次右衛門は入口の筵をかきむしるようにはねのけて、小屋の外へころげ出して来た。そうして、その怖ろしい夢はもう醒めたらしく、彼はほっと息をついてあたりを見まわした。
 喜兵衛は身をかくす暇がなかった。今夜の月は、あいにく冴え渡っているので、竹槍をかい込んで突っ立っている彼の姿は、浪人の眼の前にありありと照らし出された。
 こうなると、喜兵衛はあわてた。見つけられたが最後、もう猶予は出来ない。彼は持っている槍を取直してただひと突きと繰出すと、弥次右衛門は早くも身をかわして、その槍の穂をつかんで強く曳いたので、喜兵衛は思わずよろめいて草の上に小膝をついた。
 相手が予想以上に手剛いので、喜兵衛はますます慌てた。彼は槍を捨てて刀に手をかけようとすると、弥次右衛門はすぐに声をかけた。
「いや、しばらく……。御貴殿は手前の笛に御執心か。」
 星をさされて、喜兵衛は一言もない。抜きかけた手を控えて暫く躊躇していると、弥次右衛門はしずかに言った。
「それほど御執心ならば、おゆずり申す。」
 弥次右衛門は小屋へはいって、かの笛を取出して来て、そこに黙ってひざまずいている喜兵衛の手に渡した。
「先刻の話をお忘れなさるな。身に禍いのないように精々お心を配りなされ。」
「ありがとうござる。」と、喜兵衛はどもりながら言った。
「人の見ぬ間に早くお帰りなされ。」と、弥次右衛門は注意するように言った。
 もうこうなっては相手の命令に従うよりほかはない。喜兵衛はその笛を押しいただいて殆んど機械《からくり》のように起ちあがって、無言で丁寧に会釈《えしゃく》して別れた。

 屋敷へ戻る途中、喜兵衛は一種の慚愧《ざんき》と悔恨とに打たれた。世にたぐいなしと思われる名管を手に入れた
前へ 次へ
全128ページ中115ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング