がら、それを手放さぬというのは判らぬ。」
と、かれは詰《なじ》るように言った。
「それは手前にも判りませぬ。」と、弥次右衛門は言った。「捨てようとしても捨てられぬ。それが身の禍いとも祟りともいうのでござろうか。手前もあしかけ十年、これには絶えず苦しめられております。」
「絶えず苦しめられる……。」
「それは余人にはお話のならぬこと。またお話し申しても、所詮《しょせん》まこととは思われますまい。」
それぎりで弥次右衛門は黙《だま》ってしまった。喜兵衛も黙っていた。ただ聞えるのは虫の声ばかりである。河原を照らす月のひかりは霜をおいたように白かった。
「もう夜がふけました。」と、弥次右衛門はやがて空を仰ぎながら言った。
「もう夜がふけた。」
喜兵衛も鸚鵡《おうむ》がえしに言った。彼は気がついて起ちあがった。
三
浪人に別れて帰った喜兵衛は、それから一|刻《とき》ほど過ぎてから再びこの河原に姿をあらわした。彼は覆面して身軽によそおっていた。「仇討《かたきうち》襤褸錦《つづれのにしき》」の芝居でみる大晏寺堤《だいあんじづつみ》の場という形で、彼は抜足をして蒲鉾小屋へ忍び寄った。
喜兵衛はかの笛が欲しくて堪らないのである。しかし浪人の口ぶりでは、所詮それを素直に譲ってくれそうもないので、いっそ彼を闇討にして奪い取るのほかはないと決心したのである。勿論、その決心をかためるまでには、彼もいくたびか躊躇したのであるが、どう考えてもかの笛がほしい。浪人とはいえ、相手は宿無しの乞食である。人知れずに斬ってしまえば、格別にむずかしい詮議もなくてすむ。こう思うと、彼はいよいよ悪魔になりすまして、一旦わが屋敷へ引っ返して身支度をして、夜のふけるのを待って、再びここへ襲ってきたのであった。
嘘かほんとうか判らないが、さっきの話によると、かの弥次右衛門は相当の手利きであるらしい。別に武器らしいものを持っている様子もないが、それでも油断はならないと喜兵衛は思った。自分もひと通りの剣術は修業しているが、なんといっても年が若い。真剣の勝負などをした経験は勿論ない。卑怯な闇討をするにしても、相当の準備が必要であると思ったので、彼は途中の竹藪から一本の竹を切出して竹槍をこしらえて、それを掻い込んで窺い寄ったのである、葉ずれの音をさせないように、彼はそっと芒をかきわけて、まず小屋のう
前へ
次へ
全128ページ中114ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング