。美濃《みの》の金森兵部少輔の家が幕府から取潰されたときに、家老のなにがしは切腹を申渡された。その家老が検視の役人にむかって、自分はこのたび主家の罪を身に引受けて切腹するのであるから、決してやましいところはない。むしろ武士として本懐に存ずる次第である。しかし実を申せば拙者には隠れたる罪がある。若いときに旅をしてある宿屋に泊ると、相宿《あいやど》の山伏が何かの話からその太刀をぬいて見せた。それが世にすぐれたる銘刀であるので、拙者はしきりに欲しくなって、相当の価でゆずり受けたいと懇望したが、家重代《いえじゅうだい》の品であるというので断られた。それでもやはり思い切れないので、あくる朝その山伏と連れ立って人通りのない松原へ差しかかったときに、不意に彼を斬り殺してその太刀を奪い取って逃げた。それは遠い昔のことで、幸いに今日《こんにち》まで誰にも覚られずに月日を送って来たが、今更おもえば罪深いことで、拙者はその罪だけでもかような終りを遂げるのが当然でござると言い残して、尋常に切腹したということである。これから僕が話すのも、それにやや似通っているが、それよりも、さらに複雑で奇怪な物語であると思ってもらいたい。

 僕の国では謡曲や能狂言がむかしから流行する。したがって、謡曲や狂言の師匠もたくさんある。やはりそれらからの関係であろう、武士のうちにも謡曲はもちろん、仕舞《しまい》ぐらいは舞う者もある。笛をふく者もある。鼓をうつ者もある。その一人に矢柄喜兵衛という男があった。名前はなんだか老人らしいが、その時はまだ十九の若侍で御馬廻りをつとめていた。父もおなじく喜兵衛といって、せがれが十六の夏に病死したので、まだ元服したばかりのひとり息子が父の名をついで、とどこおりなく跡目を相続したのである。それから足かけ四年のあいだ、二代目の若い喜兵衛も無事に役目を勤め通して、別に悪い評判もなかったので、母も親類も安心して、来年の二十歳《はたち》にもなったならば、しかるべき嫁をなどと内々心がけていた。
 前にいったような国風であるので、喜兵衛も前髪のころから笛を吹き習っていた。他藩であったら或いは柔弱のそしりを受けたかも知れないが、ここの藩中では全然無芸の者よりも、こうした嗜《たしな》みのある者がむしろ侍らしく思われるくらいであったから、彼がしきりに笛をふくことを誰もとがめる者はなかった。
 むか
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