だんう》のあいだをくぐって、まかり間違えば砲弾のお見舞を受けないとも限らない現在の我れわれに取っては、家に妖ありぐらいは余り問題にならないのであった。
「それにしても、娘は遅いな。」
「支那の女はめったに外人に顔をみせないというから、出て来るのを渋っているのかも知れない。」
「ことに相手が我れわれでは、いよいよ渋っているのだろう。」
 前面には砲声が絶えずとどろいているが、この頃の僕たちはもうそれに馴れ切ってしまったので、重砲のひびきも曳光弾《えいこうだん》のひかりも、さのみに我れわれの神経を刺戟しなくなった。僕たちはそこらに行儀わるく寝ころんで、しきりに娘の噂をしているあいだに、きょうの日ももう暮れかかって、秋の早い満洲のゆうべは薄ら寒くなって来たので、土間の隅に積んである高粱《コウリャン》を折りくべて、僕たちは霜を恐れるきりぎりす[#「きりぎりす」に傍点]のように竈《かまど》の前にあつまった。

     二

「敵もいい加減にしないかな。早く遼陽へ行ってみたいものだ。」
 むすめの噂も飽きて来て、さらにいつもの戦争のうわさに移ったときに、足音をぬすむようにしてかの老人が再びここへ姿をあらわして、主人の娘を今ここへ連れて来るから何分よろしくおねがい申すと言った。それを聴いて、僕たちは待ちかねたように起《た》ちあがって、老人のあとに付いて門口《かどぐち》に出ると、外はもう暗くなって、大きい柳の葉のゆるくなびいている影が星あかりの下に薄白く見えるばかりであった。そこらではこおろぎ[#「こおろぎ」に傍点]のむせぶ声もきこえた。
 やがて奥の木立ちの間に一つの燈籠の灯《ひ》がぼんやりと浮き出した。それはここらでしばしば見る画燈《がとう》である。僕はにわかに剪燈新話《せんとうしんわ》の牡丹燈記を思い出した。あわせて円朝の牡丹燈籠を思い出した。そうして、その灯をたずさえて来るのが美しい幽霊のような女であることを想像して、一種の幽怪凄絶の気分に誘い出された。灯がだんだんに近寄って来ると、それに照らし出された影はひとつではなかった。問題の娘らしい若い女は老女に扶《たす》けられて、そのそばにはまたひとりの若い女が画燈をさげて附添っていたが、いずれも繍《ぬい》の靴をはいているとみえて、もう夜露のおりているらしい土の上を音もなしに歩いて来た。
 老女はむすめの母でない。画燈をさげた若
前へ 次へ
全128ページ中69ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング