埋もれたる古井戸のあるのを発見して、水の清いのを喜んでそのままに用い来たったものらしい。
 源平時代からこの天保初年までは六百余年を経過している。その間、平家の公達のたましいを宿した二つの鏡は、古井戸の底に眠ったように沈んでいたのであろう。それがどうして長い眠りから醒めて、なんの由縁《ゆかり》もない後住者の子孫を蠱惑《こわく》しようと試みたのか、それは永久の謎である。鏡は由井家の菩提寺へ納められて、吉左衛門が施主となって盛大な供養の式を営んだ。
 その鏡はなんとかいう寺の宝物のようになっていて、明治以後にも虫干《むしぼし》の時には陳列して見せたそうであるが、今はどうなったか判らない。由井の家は西南戦争の際に、薩軍の味方をしたために、兵火に焼かれて跡方もなくなってしまったが、家族は長崎の方へ行って、今でも相当に暮らしているという噂である。その井戸は――それもどうしたか判らない。今ではあの辺もよほど開けたというから、やはり清水の井戸として大勢の人に便利をあたえているかも知れない。
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   窯変《ようへん》


     一

 第七の男は語る。

 明治三十七年八月二十九日の夕方である。僕はその当時、日露戦争の従軍新聞記者として満洲の戦地にあって、この日は午後三時ごろに楊家店《ようかてん》という小さい村に行き着いた。前方は遼陽攻撃戦の最中で、首山堡《しゅざんぽう》の高地はまだ陥らない。鉄砲の音は絶え間なしにひびいている。
 僕たちは毎晩つづいて野宿同様の苦をしのいで来たので、今夜は人家をたずねて休息することにして、二、三人あるいは四、五人ずつ別れ別れになって今夜のやどりを探してあるいた。楊家店は文字通りに柳の多い村である。その柳のあいだをくぐり抜けて、僕たち四人の一組は石の古井戸を前にした、相当に大きい家をみつけた。
 井戸のほとりには十八九ぐらいの若い男がバケツに綱を付けたのを繰りさげて、荷《にな》い桶に水を汲みこんでいる。おまえはこの家の者かと、僕たちはおぼつかない支那語できくと、彼は恐れるように頭《かぶり》をふった。ここの家《うち》の姓はなんというかと重ねて訊くと、彼はそこらに落ちている木の枝を拾って、土の上に徐という字を書いてみせた。そうして、日本の大人《たいじん》らはそこへ何の用事でゆくのかと訊《き》きかえした。
 今夜はここの家に泊めてもらう
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