、何者が住んでいたのかということを詮索する方針を取ったのである。
それもまた容易に判らなかったのであるが、古い記録や故老の口碑をたずねて、南北朝の初め頃まではここに越智《おち》七郎左衛門という武士が住んでいたことを初めて発見した。七郎左衛門は源平時代からここに屋敷を構えていて、相当に有力の武士であったらしいのであるが、南北朝時代に菊池のために亡ぼされて、その子孫はどこへか立去ったということが判ったので、さらにその子孫のゆくえを詮議することになったが、何分にも遠い昔のことであるから、それも容易には判らない。いろいろに手を尽して詮索した末に、越智の家の子孫は博多へ流れて行って、今では巴屋という漆屋《うるしや》になっていることを突きとめた。口で言うと、単にこれだけの手つづきであるが、これだけのことを確かめるまでに殆んど一年間を費《ついや》したのであった。
それから博多の巴屋について、越智の家に関する古い記録を詮議すると、巴屋にも別に記録のようなものは何にも残っていなかった。しかし遠い先祖のことについて、こういう一種の伝説があるといって、当代の主人が話してくれた。
それが何代目であるか判らないが、源平時代に越智の家は最も繁昌していたらしい。その越智の屋敷へ或る年の春の夕ぐれに、二人連れの若い美しい女がたずねて来た。主人の七郎左衛門に逢って、どういう話をしたか知らないが、その女たちはその夜からここに足をとどめて、屋敷内の人になってしまった。主人は一家の者に堅く口止めをして、かの女たちを秘密に養っておいたのである。女たちも人目を避けて、めったに外へ出なかった。
その人柄や風俗から察すると、かれらは都の人々で、おそらく平家の官女が壇の浦から落ちて来て、ここに隠れ家を求めたのであろうと、屋敷内の者はひそかに鑑定していた。主人の七郎左衛門はその当時二十二三歳で、まだ独身であった。そのふところへ都生れの若い女が迷い込んで来たのであるから、その成行きも想像するに難くない。やがてその二人の女は主人と寝食をともにするようになって、三年あまりをむつまじく暮らしていた。どっちが妻だかわからないが、家来らはその一人を梅殿といい、他のひとりを桜殿と呼んで尊敬していた。
そうしているうちに、ここに一つの事件が起った。それは近郷の滝沢という武士から七郎左衛門に結婚を申込んで来たのである。滝沢も
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