よ。
(高田はうなずいて、下のかたへ引返して去る。阿香はそれを見送りながら、正面へまわりて扉を叩く。)
柳 (みかえる。)誰だえ。お父さんかえ。
阿香 わたしですよ。
柳 戸は開いているよ。お這入り……。
阿香 (扉をあけて入る。)あら、暗いことね。まだ燈火《あかり》をつけないの。
柳 いつの間にか暗くなったね。
阿香 町の方じゃあ、もう疾《と》うに電燈がついているわ。
柳 町とここらとは違わあね。あかりをつけないでも、今にもうお月様がおあがりなさるよ。
阿香 それでもあんまり暗いわ。
(阿香は上のかたの一室に入る。柳は竃の下を焚きつけている。表はだんだんに薄明るくなる。下のかたよりこの家のあるじ李中行、五十歳前後、肉と菓子とを入れたる袋を両脇にかかえて出づ。)
李中行 そろそろお月様がおあがりなさると見えて、東の空が明るくなって来た。
柳 (窓から覗く。)お父さんかえ。
李中行 むむ。今帰ったよ。(正面の扉をあけて入る。)阿香はどうした。
柳 たった今、帰って来ましたよ。時に買い物は……。
李中行 (袋を卓の上に置く。)まあ、どうにか斯《こ》うにか買うだけの品は買い調《ととの》えて来たが、むかしと違って、一年増しに何でも値段が高くなるにはびっくり[#「びっくり」に傍点]するよ。月餅《げっぺい》一つだって、うっかり買われやあしない。
柳 まったく私達の若い時のことを考えると、なんでも相場が高くなって、世の中は暮らしにくくなるばかりだ。それでもこうして生きている以上は、不断はどんなに倹約しても、お正月とか十五夜とかいう時だけは、まあ世間並のことをしないと気が済まないからね。
李中行 そうだ、そうだ。おれもそう思うから、見す見す高い物をこうして買い込んで来たのだ。阿香が帰っているなら、あれに手伝わせて早くお供え物を飾り付けたら好かろう。もうお月さまはお出なさるのだ。
柳 (窓から表を覗く。)今夜はすっかり晴れているから、好いお月さまが拝めるだろう。
李中行 むむ。近年にない十五夜だ。
(阿香は着物を着かえ、小さいランプを手にして、一室より出づ。)
阿香 お父さん。お帰りなさい。
李中行 さあ、みんな買って来たから、早く供えてくれ。
阿香 十五夜のお供え物も高くなったそうですね。
李中行 今もそれを云っていたのだが、だんだん貧乏人泣かせの世の中になるばかりだ。
阿香 (笑
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