世界怪談名作集
牡丹燈記
瞿宗吉
岡本綺堂訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)元《げん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)麗卿之|柩《ひつぎ》
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(例)[#「ぞっ」に傍点]
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元《げん》の末には天下大いに乱れて、一時は群雄割拠の時代を現出したが、そのうちで方谷孫《ほうこくそん》というのは浙東《せきとう》の地方を占領していた。彼は毎年正月十五日から五日のあいだは、明州府の城内に元霄《げんしょう》(陰暦正月十五日の夜)燈《とう》をかけつらねて、諸人に見物を許すことにしていたので、その宵《よい》よいの賑わいはひと通りでなかった。
元の至正《しせい》二十年の正月である。鎮明嶺《ちんめいりょう》の下に住んでいる喬生《きょうせい》という男は、年がまだ若いのにさきごろその妻を喪《うしな》って、男やもめの心さびしく、この元霄の夜にも燈籠《とうろう》見物に出る気もなく、わが家の門《かど》にたたずんで、むなしく往来の人びとを見送っているばかりであった。十五日の夜も三更《さんこう》(真夜中の十二時から二時間)を過ぎて、人影もようやく稀《まれ》になったころ、髪を両輪に結んだ召使ふうの小女《こおんな》が双頭の牡丹燈《ぼたんとう》をかかげてさきに立ち、ひとりの女を案内して来た。女は年のころ十七、八で翠袖《すいしゅう》紅裙《こうくん》の衣《きぬ》を着て、いかにも柔婉《しなやか》な姿で、西をさして徐《しず》かに過ぎ去った。
喬生は月のひかりで窺《うかが》うと、女はまことに国色《こくしょく》(国内随一の美人)ともいうべき美人であるので、神魂飄蕩《しんこんひょうとう》、われにもあらず浮かれ出して、そのあとを追ってゆくと、女もやがてそれを覚《さと》ったらしく、振り返ってほほえんだ。
「別にお約束をしたわけでもないのに、ここでお目にかかるとは、何かのご縁でございましょうね」
それを機《しお》に、喬生は走り寄って丁寧に敬礼した。
「わたしの住居《すまい》はすぐそこです。ちょっとお立ち寄りくださいますまいか」
女は別に拒《こば》む色もなく、小女を呼び返して、喬生の家《うち》へ戻って来た。初対面ながら甚《はなは》だうちとけて、女は自分の身の上を明かした。
「わたくしの姓は符《ふ》、字《あざな》は麗卿《れいけい》、名は淑芳《しゅくほう》と申しまして、かつて奉化《ほうか》州の判《はん》(高官が低い官を兼ねる)を勤めておりました者の娘でございますが、父は先年この世を去りまして、家も次第に衰え、ほかに兄弟もなく、親戚《みより》も少ないので、この金蓮《きんれん》とただふたりで月湖《げっこ》の西に仮住居をいたしております」
今夜は泊まってゆけと勧めると、女をそれをも拒まないで、ついにその一夜を喬生の家《うち》に明かすことになった。それらのことはくわしく言うまでもない、「はなはだ歓愛を極む」と書いてある。夜のあけるころ、女はいったん別れて立ち去ったが、日が暮れると再び来た。金蓮という小女がいつも牡丹燈をかかげて案内して来るのであった。
こういうことが半月ほども続くうちに、喬生のとなりに住む老翁《ろうおう》が少しく疑いを起こして、壁に小さい穴をあけてそっと覗いていると、紅《べに》や白粉《おしろい》を塗った一つの骸骨が喬生と並んで、ともしびの下に睦《むつ》まじそうにささやいていた。それを見て大いに驚いて、老翁は翌朝すぐに喬生を詮議すると、最初は堅く秘して言わなかったが、老翁に嚇《おど》されてさすがに薄気味悪くなったと見えて、彼はいっさいの秘密を残らず白状した。
「それでは念のために調べてみなさい」と、老翁は注意した。「あの女たちが月湖の西に住んでいるというならば、そこへ行ってみれば正体がわかるだろう」
なるほどそうだと思って、喬生は早速に月湖の西へたずねて行って、長い堤《どて》の上、高い橋のあたりを隈《くま》なく探し歩いたが、それらしい住み家も見当たらなかった。土地の者にも訊《き》き、往来の人にも尋《たず》ねたが、誰も知らないというのである。そのうちに日も暮れかかって来たので、そこにある湖心寺《こしんじ》という古寺にはいってしばらく休むことにして、東の廊下をあるき、さらに西の廊下をさまよっていると、その西廊のはずれに薄暗い室《へや》があって、そこに一つの旅棺《りょかん》が置いてあった。旅棺というのは、旅さきで死んだ人を棺に蔵《おさ》めたままで、どこかの寺中《じちゅう》にあずけておいて、ある時期を待って故郷へ持ち帰って、初めて葬を営むのである。したがって、この旅棺について古来いろいろの怪談が伝えられている。
喬生は何ごころなくその旅棺をみると、その上に白い紙が貼っ
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