。こう思うと、僕はこの不幸なる幽霊にむかって本当の同情を持つようにもなって来た。
「君は気の毒だ。君の立場はまったく困難だ。ひとりの人間が二人になったという話を僕も思い出した。そうして、彼が自分と同じ人間を見つけた時には、定めて非常に憤激するだろうということも想像されるよ」
「いや、それとこれとはまるで違います」と、幽霊は言った。「ひとりの人間が二人になって地上に住む……ドイツでいうドッペルゲンゲルのたぐいは、ちっとも違わない人間が二人あるのですから、もちろん、いろいろの面倒を生じるでしょうが、わたしの場合はまたそれとまるで相違しているのです。私はヒンクマン氏とここに同棲するのでなく、彼に代るべくここに控えているのですから、彼がそれを知った以上、どんなに怒るか知れますまい。あなたはそう思いませんか」
僕はすぐにうなずいた。
「それですから今日はあの人が出て行ったので、わたしも暫時《ざんじ》楽らくとしていられるというわけです」と、幽霊は語りつづけた。「そうして、あなたとこうして話すことのできる機会を得たのを、喜んでいるのです。わたしはたびたびこの部屋に来て、あなたの寝ているところを見ましたが、うっかり話しかけることが出来なかったのです。あなたが私と口をきいて、もしそれがヒンクマン氏に聞こえると、どうしてあなたが独り言をいっているのかとおもって、この部屋へうかがいに来る虞《おそ》れがありますから……」
「しかし、君の言うことは人に聞こえないのかね」と、僕は訊いた。
「聞こえません」と、相手は言った。「誰かが私の姿を見ることがあっても、誰もわたしの声を聞くことは出来ません。わたしの声は、わたしが話しかけている人だけに聞こえるので、ほかの人には聞こえません」
「それにしても、君はどうして僕のところへ話しに来たのかね」と、僕はまた訊いた。
「わたしも時どきには人と話してみたいのです。ことにあなたのように、自分の胸いっぱいに苦労があって、われわれのような者がお見舞い申しても驚く余地がないような人と話してみたかったのです。あなたも私に厚意を持ってくださるように、特におねがい申しておきます。なにしろヒンクマン氏に長生きをされると、わたしの位地《いち》ももう支え切れなくなりますから、現在大いに願っているのは、どこへか移転することです。それについて、あなたもお力を貸してくださるだろうと思っているのです」
「移転……」と、僕は思わず大きい声を出した。「それはどういうわけだね」
「それはこうです」と、相手は言った。「わたしはこれから誰かの幽霊になりにゆくのです。そうして、ほんとうに死んでしまった人の幽霊になりたいのです」
「そんなことはわけはあるまい」と、わたしは言った。「そんな機会はしばしばあるだろうに……」
「どうして、どうして……」と、私の相手は口早に言った。「あなたはわれわれ仲間にも競合《せりあ》いのあることをご存じないのですな。どこかに一つ空《あ》きができて、私がそこへ出かけようとしても、その幽霊には俺がなるという申し込みがたくさんあって困るのです」
「そういうことになっているとは知らなかった」と、僕もそれに対して大いに興味を感じてきた。「そうすると、そこには規則正しい組織があるとか、あるいは先口から順じゅんにゆくというわけだね。まあ、早くいえば、理髪店へいった客が順じゅんに頭を刈ってもらうというような理屈で……」
「いや、どうして、それがそうはいかないので……。われわれの仲間には果てしもなく待たされている者があります。もしここにいい幽霊の株があるといえば、いつでも大変な競争が起こる。また、つまらない株であると、誰も振り向いても見ない。そういうわけですから、相当の空き株があると知ったら、大急ぎでそこへ乗り込んで、私が現在の窮境を逃がれる工夫をしなければなりません。それにはあなたが加勢してくださることが出来ると思います。もしなんどき、どこに幽霊の空き株ができるという見込みがあったら、まだ一般に知れ渡らないうちに、前もって私に知らせてください。あなたがちょっと報告してくだされば、わたしはすぐに移転の準備に取りかかります」
「それはどういう意味だね」と、僕は呶鳴《どな》った。「すると、君は僕に自殺でもしろというのか。さもなければ、君のために人殺しでもしろと言うのかね」
「いや、いや、そんなわけではありません」と、彼は陽気に笑った。「そこらには、たしかに多大の興味をもって注意されるべき恋人同士があります。そういう人たちが何かのことで意気銷沈したという場合には、まことにお誂《あつら》えむきの幽霊の株ができるのです。といっても、何もあなたに関《かか》わることではありません。ただ、わたしがこうしてお話をしたのはあなたひとりですから、もし私の役に立つよう
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