まいよ」
こう言いながら、彼は足をのばして背中を椅子へ寄せかけた。その姿かたちは以前よりも濃くなって、着物の色もはっきりと浮かんできて、心配そうであった彼の容貌も救われたように満足の色をみせた。
「二年半……」と、僕は叫んだ。「君の言うことは分からないな」
「わたしがここへ来てから、たしかにそれほどの長さになるのです」と、幽霊は言った。「なにしろ私のは普通の場合と違うのですからな。それについて少しお断わりをする前に、もう一度おたずね申しておきたいのはヒンクマン氏のことですが、あの人は今夜たしかに帰りませんか」
「僕の言うことになんでも嘘はない」と、僕は答えた。「ヒンクマン氏はきょう、二百マイルも遠いブリストルへいったのだ」
「では、続けてお話をしましょう」と、幽霊は言った。「わたしは自分の話を聴いてくれる人を見つけたのが何より嬉しいのです。しかしヒンクマン氏がここへはいって来て、わたしを取っつかまえるということになると、わたしは驚いて途方《とほう》に暮れてしまうのです」
そんな話を聞かされて、僕はひどく面喰らってしまった。
「すべてが非常におかしな話だな。いったい、君はヒンクマン氏の幽霊かね」
これは大胆な質問であったが、僕の心のうちには恐怖などをいだくような余地がないほどに、他の感情がいっぱいに満ちていたのであった。
「そうです。わたしはヒンクマン氏の幽霊です」と、相手は答えた。「しかし私にはその権利がないのです。そこで、わたしは常に不安をいだき、またあの人を恐れているのです。それはまったく前例のないような不思議な話で……。今から二年半以前に、ジョン・ヒンクマンという人は、大病に罹《か》かってこの部屋に寝ていたのですが、一時は気が遠くなって、もう本当に死んだのだろうと思われたのです。その報告があまり軽率《けいそつ》であったために、彼はすでに死んだものと認められて、わたしがその幽霊になることに決められたのです。さていよいよその幽霊となった時、あの老人は息を吹きかえして、それからだんだんに回復して、不思議に元のからだになったと分かったので、その時のわたしの驚きと怖れはどんなであったか。まあ、察してください。そうなると、私の立場は非常に入り組んだ困難なものになりました。ふたたび元の無形体に立ちかえる力もなく、さりとて生きている人の幽霊になり済ます権利もないというわけです。わたしの友達は、まあそのままに我慢していろ、ヒンクマン氏も老人のことであるから長いことはあるまい。彼が今度死ねば、おまえの地位を確保することが出来るのだから、それまで待っていろと忠告してくれたのですが……」と、かれはだんだんに元気づいて話しつづけた。
「どうです、あの爺《じい》さん。今までよりも更に達者になってしまって、私のこの困難な状態がいつまで続くことやら見当がつかなくなりました。わたしは彼と出逢わないように、一日じゅう逃げ廻っているのですが、さりとてここの家を立ち去るわけにはいかず、また、あの老人がどこへでも私のあとをつけて来るように思われるので、実に困ります。まったく私はあの老人に祟《たた》られているのですな」
「なるほど、それは奇妙な状態に立ちいたったものだな」と、僕は言った。「しかし、君はなぜヒンクマン氏を恐れるのかね。あの人が君に危害を加えるということもあるまいが……」
「もちろん、危害を加えるというわけではありません」と、幽霊は言った。「しかし、あの人の実在するということが、わたしにとっては衝動《ショック》でもあり、恐怖《テロル》でもあるのです。あなたがもし私の場合であったらばどう感じられますか。まあ、想像してごらんなさい」
僕には所詮《しょせん》そんなことの想像のできるはずはなく、ただ身ぶるいするばかりであった。幽霊はまた言いつづけた。
「もし私が質《たち》のわるい幽霊であったらば、ヒンクマン氏より他の人の幽霊になったほうが、さらに愉快であると思うでしょう。あの老人は怒りっぽい人で、すこぶる巧妙な罵詈雑言《ばりぞうごん》を並べ立てる……あんな人にはこれまでめったに出逢ったことがありません。そこで、彼がわたしを見つけて、わたしがなぜここにいるか、また幾年ここにいるかということを発見したら……いや、きっと発見するに相違ありません……そこにどんな事件が出来《しゅったい》するか、わたしにもほとんど見当がつかないくらいです。わたしは彼の怒ったのを見たことがあります。なるほど、その人たちに対して危害を加えはしませんでしたが、その風雨《あらし》のすさまじいことは大変で、相手の者はみな彼の前に縮みあがってしまいました」
それがすべて事実であることは、僕も承知していた。ヒンクマン氏にこの癖がなければ、僕も彼の姪について進んで交渉することが出来るのであった
前へ
次へ
全7ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング