の婦人の立ち去るまでここに待っていてもよろしいのですが……」
「ここに待っているには及ばない」と、僕は言った。「おまえになんにも言うようなことはないのだ」
マデライン嬢はおどろいて飛びあがった。その顔は赧《あか》くなって、その眼は燃えるように輝いた。
「ここに待っている……」と、彼女は叫んだ。「私が何を待っていると思っていらっしゃるの。わたしになんにも言うことはない……。まったくそうでしょう。わたしにお話しなさるようなことはなんにもないはずですもの」
「マデラインさん」と、僕は彼女のほうへ進み寄りながら呶鳴《どな》った。「まあ、わたしの言うことを聴いてください」
しかも彼女はもういってしまったのである。こうなると、僕にとっては世界の破滅である。僕は幽霊の方へあらあらしく振り向いた。
「こん畜生! 貴様はいっさいをぶちこわしてしまったのだ。貴様はおれの一生を暗闇《くらやみ》にしてしまったのだ。貴様がなければ……」
ここまで言って、僕の声は弱ってしまった。僕はもう言うことができなくなったのである。
「あなたは私をお責めなさるが、私が悪いのではありませんよ」と、幽霊は言った。「私はあなたを励まして、あなたを助けてあげようと思っていたのです。ところが、あなた自身が馬鹿なことをして、こんな失策《しっさく》を招いてしまったのです。しかし失望することはありません。こんな失策はまたどうにでも申しわけができます。まあ、気を強くお持ちなさい。さようなら」
彼は石鹸《しゃぼん》の泡の溶けるがごとくに、欄干から消え失せてしまった。
僕が思わず口走ったことを説明するのは、不可能であった。その晩はおそくまで起きていて、繰り返し繰り返してそのことを考え明かしたのち、僕は事実の真相をマデライン嬢に打ち明けないことに決心した。彼女の叔父の幽霊がここの家に取り憑《つ》いていることを彼女に知らせるよりも、自分が一生ひとりで苦しんでいるほうがましであると、僕は考えた。ヒンクマン氏は留守である。そこへ彼の幽霊が出たということになれば、彼女は叔父が死なないとは信じられまい。彼女も驚いて死ぬであろう。僕の胸にはいかなる手疵《てきず》をこうむってもいいから、このことはけっして彼女に打ち明けまいと思った。
次の日はあまり涼しくもなく、あまり暖かくもなく、よい日和《ひより》であった。そよ吹く風もやわらかで、自然はほほえむようにもみえた。しかも今日はマデライン嬢と一緒に散歩するでもなく、馬に乗るでもなかった。彼女は一日働いているらしく、僕はちょっとその姿を見ただけであった。食事の時にわれわれは顔を合わせたが、彼女はしとやかであった。しかも静かで、控え目がちであった。僕はゆうべ彼女に対してはなはだ乱暴であったが、僕の言葉の意味はよく分かっていないので、彼女はそれをたしかめようとしているに相違なかった。それは彼女として無理もないことで、ゆうべの僕の顔色だけでは、言葉の意味はわかるまい。僕は伏目になって凋《しお》れかえって、ほんの少しばかり口をきいただけであったが、僕の窮厄《きゅうやく》の暗黒なる地平線を横断する光明の一線は、彼女がつとめて平静をよそおいながら、おのずから楽しまざる気色のあらわれていることであった。
月の明かるい廊下もその夜は空明《からあ》きであった。しかし僕は家のまわりをうろつき歩いているうちに、マデライン嬢がひとりで図書室にいるのを見つけた。彼女は書物を読んでいたので、僕はそこへはいって行って、そばの椅子に腰をおろした。僕はたといじゅうぶんでなくとも、ある程度まではゆうべの行動について弁明を試みておかなければなるまいと思った。そこで、ゆうべ僕が用いた言葉に対して、僕が弁解すこぶるつとめているのを、彼女は静かに聴きすましていた。
「あなたがどんなつもりでおっしゃっても、私はなんとも思っていやあしませんわ」と、彼女は言った。「けれども、あなたもあんまり乱暴ですわ」
僕はその乱暴の意思を熱心に否認した。そうして、僕が彼女に対して乱暴を働くはずがないということを、彼女もたしかに諒解したであろうと思われるほどの、やさしく温かい言葉で話した。僕はそれについて懇こんと説明して、そこにある邪魔がなければ、彼女が万事を諒解し得るように、僕がもっと明白に話すことが出来るのであるということを、彼女が信用してくれるように懇願した。
彼女はしばらく黙っていたが、やがて以前よりもやさしく思われるように言った。
「とにかく、その邪魔というのは私の叔父に関係したことですか」
「そうです」と、僕はすこし躊躇《ちゅうちょ》したのちに答えた。「それはある程度まであの人に関係しているのです」
彼女はそれに対してなんにも返事をしなかった。そうして、自分の書物にむかっていたが、それを読ん
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