れば、何もきこえるはずはありません。もちろん、話しかけたりする気遣いもありません」
 それを聞いて、僕も安心したような顔をしたろうと思われた。幽霊はつづけて言った。
「それですからお困りになることはありません。しかし、私の見るところでは、あなたの遣り口はどうも巧《うま》くないようですね。私ならば、もう猶予《ゆうよ》なしに言い出してしまいますがね。こんないい機会は二度とありませんぜ。躊躇《ちゅうちょ》していてはいけませんよ。私の鑑定では、相手の婦人もよろこんであなたの言うことに耳を傾けますよ。婦人のほうでも、ふだんからそうあれかしと待ちかまえているのですからね。あるじのヒンクマン氏は今度ぎりで当分どこへも出かけそうもありませんぜ。たしかにこの夏は出かけませんよ。もちろん、私があなたの立場にあれば、ヒンクマン氏がどこにいようとも、最初からその人の姪にラヴしたりなんぞはしませんがね。マデライン嬢にそんなことを申し込んだ奴があると知れたら、あの人は大立腹で、それは、それは、大変なことになりましょうよ」
 それは僕も同感であった。
「まったくそれを思うと、実にやり切れない。彼のことを考えると……」と、僕は思わず大きい声を出した。
「え、誰のことを考えると……」と、マデライン嬢は急に向き直って訊いた。
 いや、どうも飛んだことになった。幽霊の長ばなしはマデライン嬢の注意をひかなかったが、僕はわれを忘れて大きい声を出したので、それははっきりと彼女に聞こえてしまったのである。それに対して何とか早く説明しなければならないが、もちろん、その人が彼女の大事な叔父さんであるとは言われないので、僕は急に思いつきの名を言った。
「え、ヴィラー君のことですよ」
 思いつきといっても、これは極めて正当の陳述であった。ヴィラー君というのは一個の紳士で、彼もマデライン嬢に対して大いに注目しているらしいので、僕はそれを考えるたびに、彼に対して忍ぶあたわざる不快を感じていたのであった。
「あなた、ヴィラーさんのことをそんなふうに言っては悪うござんすわ」と、彼女は言った。「あのかたは若いに似合わず、非常によく教育されて、物がよく分かって、へいぜいの態度も快活な人ですわ。あのかたはこの秋、立法官に選挙されたと言っていらっしゃるのですが、私も適任者だと思っていますのよ。あのかたならばきっとようござんすわ。言うべきことがあれば、どういう時にどう言うかということを、あのかたはちゃんとご存じですもの」
 彼女は別に腹を立てたという様子も見せずに、極めておだやかに、極めて自然にそれを話した。もしマデライン嬢が僕に厚意を有するならば、僕が自分の競争者に対して不折り合いの態度を示したからといって、それについて悪感をいだかないはずである。彼女の言葉全体を案ずれば、僕にもたいてい分かるだけのヒントを得た。もしヴィラー君が僕の現在の地位にあれば、すぐに自分の思うことを言い出すに相違あるまいと思った。
「なるほど、あの人に対してそんな考えを持つのは悪いかもしれませんが……」と、僕は言った。「しかしどうも僕には我慢が出来ないのですよ」
 彼女は僕を咎《とが》めようともせず、その後はいよいよ落ち着いているように見えた。しかし僕は、はなはだ苦しんだ。僕は自分の心のうちに絶えずヴィラー君のことを考えていないということを、ここで承認したくなかったからである。
「そんなふうに大きい声で言わないほうがいいでしょう」と、幽霊は言った。「そうでないと、あなた自身が困るようなことになりますよ。私はあなたのために、諸事好都合に運ぶことを望んでいるのです。そうすれば、あなたも進んで私を助けてくださるようになるでしょう。ことに私があなたのご助力をいたすような機会をつくれば……」
 彼が僕を助けてくれるのは、この際ここを早く立ち去ってくれるに越したことはないと、僕は彼に話して聞かせたかったのである。若い女と恋をしようというのに、そばの欄干《てすり》には幽霊がいる――しかもその幽霊は僕の最も恐れている叔父の幽霊であることを考えると、場所も場所、時も時、僕はふるえあがらざるを得ないのである。ここで事件を進行させようとするのは、たとい不可能といわないまでも、すこぶる困難であるといわなければならない。しかも僕は自分のこころを相手の幽霊に覚《さと》らせるにとどまって、それを口へ出して言うわけにはゆかないのである。
 幽霊はつづけて言った。
「あなたはたぶん、わたしの利益になるようなことをお聞き込みにならないのだろうと察しています。私もそうだと危《あや》ぶんでいたのです。しかし何かお話しくださるようなことがあるならば、あなたが一人になるまで待っていてもよろしいのです。私は今夜あなたの部屋へおたずね申してもよろしい。さもなければ、こ
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