と思っているのです」
「移転……」と、僕は思わず大きい声を出した。「それはどういうわけだね」
「それはこうです」と、相手は言った。「わたしはこれから誰かの幽霊になりにゆくのです。そうして、ほんとうに死んでしまった人の幽霊になりたいのです」
「そんなことはわけはあるまい」と、わたしは言った。「そんな機会はしばしばあるだろうに……」
「どうして、どうして……」と、私の相手は口早に言った。「あなたはわれわれ仲間にも競合《せりあ》いのあることをご存じないのですな。どこかに一つ空《あ》きができて、私がそこへ出かけようとしても、その幽霊には俺がなるという申し込みがたくさんあって困るのです」
「そういうことになっているとは知らなかった」と、僕もそれに対して大いに興味を感じてきた。「そうすると、そこには規則正しい組織があるとか、あるいは先口から順じゅんにゆくというわけだね。まあ、早くいえば、理髪店へいった客が順じゅんに頭を刈ってもらうというような理屈で……」
「いや、どうして、それがそうはいかないので……。われわれの仲間には果てしもなく待たされている者があります。もしここにいい幽霊の株があるといえば、いつでも大変な競争が起こる。また、つまらない株であると、誰も振り向いても見ない。そういうわけですから、相当の空き株があると知ったら、大急ぎでそこへ乗り込んで、私が現在の窮境を逃がれる工夫をしなければなりません。それにはあなたが加勢してくださることが出来ると思います。もしなんどき、どこに幽霊の空き株ができるという見込みがあったら、まだ一般に知れ渡らないうちに、前もって私に知らせてください。あなたがちょっと報告してくだされば、わたしはすぐに移転の準備に取りかかります」
「それはどういう意味だね」と、僕は呶鳴《どな》った。「すると、君は僕に自殺でもしろというのか。さもなければ、君のために人殺しでもしろと言うのかね」
「いや、いや、そんなわけではありません」と、彼は陽気に笑った。「そこらには、たしかに多大の興味をもって注意されるべき恋人同士があります。そういう人たちが何かのことで意気銷沈したという場合には、まことにお誂《あつら》えむきの幽霊の株ができるのです。といっても、何もあなたに関《かか》わることではありません。ただ、わたしがこうしてお話をしたのはあなたひとりですから、もし私の役に立つよう
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