るのですか」
コスモは死のように静かな、しかし感情に激してよくは分からないような声で言った。
「それは分かりません。私がこの魔法の鏡のために苦しんでいるあいだは何とも申されません。それでもあなたの胸にいだかれて、死ぬまで泣くことが出来たら、どんなに嬉しいかしれません。あなたが私を愛していてくださることは知っております。いえ、それも分からないのですけれど……。それでも……」
ひざまずいていたコスモは起ち上がった。
「わたしはあなたを愛しています。どうしてだか、前から愛しています。そのほかにはなんにも考えておりません」
彼は彼女の手を握ると、彼女は手を引いた。
「いけません。わたしはあなたの手のうちにあるのです。それですからいけません……」
今度は彼女がコスモの前にひざまずいて泣き出した。
「もしあなたが私を愛してくださるならば、わたしを自由の身にして下さい。あなたからも自由にしてください。この鏡を毀《こわ》してください」
「そうしてからも、あなたに逢うことが出来ますか」
「それは言えません。あなたをおだまし申しませんけれど……。もう二度とお目にかからないかもしれません」
するどい驚きがコスモの胸に起こった。いま彼女は彼の手中にある。彼女はコスモを嫌ってもいない。そうして、逢いたい時はいつでも逢えるのであるが、鏡を毀すということは、彼の真実の生活を破壊することにもなり、彼の宇宙からただひとつの光明を追放することにもなるのである。愛の楽園を見ることの出来るこの一つの窓を失ってしまえば、全世界は彼にとって牢獄に過ぎない。愛に対して不純のようではあるが、彼はその実行をためらったのであった。
彼女は悲しみながら起ちあがった。
「ああ、あの人は私を愛してはくださらない。私は感じているのに、あの人は愛してくださらない。私はもう自由になれなくともいいから、あの人を愛します」
「もう待ってはいられない」
コスモはこう叫んで、大きな剣の立っている部屋の隅に飛んでいった。
もう暗くなっていた。部屋のうちには燃えさしの火が赤く輝いていた。彼は剣の鞘《さや》を手に持って鏡の前に立ったのである。彼が剣の柄《つか》がしらで鏡に一撃をあたえると、刀身は鞘から半分ほど抜け出して、柄がしらは鏡の上の壁を打った。このとき怖ろしい雷鳴が部屋のなかに発して、コスモは二度と鏡を打つことが出来ずに、無意識のままで炉のほとりに倒れてしまった。
五
コスモが意識をとりかえした時には、女も鏡も失せていた。彼はその以来頭痛を覚えて、数週間のあいだは寝台に横たわっていた。
彼は理性を回復すると、鏡の行くえについて考え始めた。彼女については、今までの通りに帰ってくれることを望んでいたが、彼女の運命は鏡のうちに含まれていて、鏡と運命を倶《とも》にしているのである。彼はそれについて更に焦燥を感じた。彼としては、彼女が鏡を持ち去ったとは思われなかった。それが壁にしっかりと取りつけてなかったとはいえ、それを持ち運ぶべく彼女にはあまり重いのである。彼はまたそのときの雷鳴について考えた。彼を打ち倒したものは、雷電《いかずち》ではない、何か他の物であるかのように断定した。何か彼に復讐を企てた悪魔が、自己の安全を図るために、神変不思議の魔力をもってなしたのではあるまいか。それともまた、何か他の方法で彼の鏡が前の持ちぬしのところへ戻ったのではあるまいか。そうして恐るべきことは、またもや他の男に彼女を渡すのではあるまいか。その男は、コスモ以上の魔法の力を所有していて、あのときにためらって鏡を砕き得なかった彼の利己的な不決断を呪うような、種《しゅ》じゅの事故を作りはしないであろうか。実際、それらのことを考えて、わが愛する者のために、また自分に自由を求めた女のために、さまざまに心を砕くのは、鏡の持ちぬしたるコスモとしてはある程度までは当然のことである。こうして、コスモの絶えざる観察の上に浮かんでくるすべてのものは、悩める恋びとの心を狂わすにじゅうぶんであった。
彼は自分のからだの回復を待っていられずに、とうとう外出するようになった。彼はまず、かの古道具屋の老人のところへ、何か他のものを求めにきたような顔をして出かけたのである。鏡のことについてよく知っているおやじの奴めが嘲笑的な顔をしているのが、コスモにも覚《さと》られた。しかもコスモは、そこにある家具や器物のうちに鏡を見いだすことはもちろん、またその鏡がどうなっているかを知ることもできなかった。
老人はその鏡が盗まれたということを聞いて、極度に驚いた。しかもその驚きはいつわりで、内心は平気であるらしいことをコスモは認めた。彼は悲しみを胸いっぱいにいだきながら、それをできるだけ押し隠して、そこらをいろいろに捜してみたが、ついに無効に終わったのであった。
彼は他人に対して別に何事も訊《き》こうとはしなかったが、それでも捜索の端緒《いとぐち》になるような暗示があらば、どんなことでも聞き逃がすまいと、常に聴き耳を立てていた。外出の節は、まんいち運よくかの鏡にひと目でも出逢う時があったらば、その時すぐに打ち割るために、いつも身には短い重い鉄鎚をつけていた。彼にとっては、彼女に逢うことはもはや第二の問題であった。ただ彼女の自由さえ得ることが出来ればそれでいいと思っていた。彼は蒼ざめた幽霊のように窶《やつ》れ果てて、自分の失策《しくじり》のために彼女がどんなに苦しみ悩んでいるかと心を傷《いた》め尽くして、所所方方をさまよい歩いていた。
ある晩、町でも最も宏壮なる別邸の一つとして知らるる家の集会にコスモもまじっていた。彼は貧しいながらも、何か自分の捜索を早める端緒を見いだしはしまいかと思って、すべての招待に応じて、その機会を失わないように努めていたのであった。この席上でも彼は何か探り出すことはないかと、洩れきこえる諸人の談話をいちいち聞き逃がさないようにうろつき廻っていた。そうして、会場の片隅で静かに話している婦人の群れに近づくと、ひとりの婦人は他の婦人にこんなことを話しているのが聞こえた。
「あなたはあのホーヘンワイス家のお姫《ひい》さまが、不思議なご病気でいらっしゃるのをご存じでございますか」
「はい、あのおかたはもう一年あまりもお悪いのでございます。あんなお美しいおかたが、そんな怖いお患《わずら》いをなすっていらっしゃるのは、お気の毒でございますね。つい二、三週間のあいだはたいそうよろしかったようでしたが、またこの二、三日以来お悪いそうで、以前よりもたしかにひどくおなりなすったといいますが、よほどわからない謂《いわ》れがあるのでございましょうね」
「何かご病気に謂れがおありになるのでございますか」
「わたくしもよくは伺っておりませんけれど、こんな話でございます。一年半ほど前にお姫さまが、お屋敷で何か大事なご用を仰せつかっている老女を、お叱りになったことがあるのだそうでございます。そうすると、その老女は何か辻褄《つじつま》の合わない嚇《おど》し文句を残して、そのままいなくなってしまいました。それから間もなくご病気が起こったのだそうで……。そうして、おかしいことには、お姫さまの化粧室に置いてあって、いつもお使いになる古代の鏡が同時に失《な》くなっていたのだそうでございます」
それから婦人たちの話は小さいささやきになったので、コスモはしきりにそれを聞きたいと思っても、もうその以上を知ることは出来なかった。この場合、コスモはかの婦人たちの好奇心のなかに飛び込んで、一緒に話したらよかったかもしれなかったが、彼は驚きのあまりにそれをなし得なかったのである。ホーヘンワイス家の姫の名はコスモもかねて知っていたが、まだその人を見たことはなかった。姫が鏡の中から抜け出した彼女でない限り、コスモは見たことのない婦人であって、かの怖ろしい夜に自分の前にひざまずいた人であるかどうかを、彼は疑わざるを得なかった。彼はなにぶんにも体が弱っているので、今聞いたことのためにひどく心を労して、もうそこに落ち着いてはいられなくなった。彼は表へ出て、自分の下宿にたどりついた。
姫に近づき得るなどということは夢にも思えないことながら、その住居がわかったことは少なくも彼にとっては喜びである。また、憎むべき監禁状態から彼女を自由にすることが出来たらば、どんなに幸福であろうと思うだけでも、彼には大いなる喜びであった。彼は思いもよらずこれだけのことを知ったように、これからもまた、どんな思いがけないことが近いうちに起こってくるであろうかと待ち望んでいたのであった。
「君は最近にスタインワルドに逢ったかい」
「いや、しばらく逢わないね。あいつは剣闘で僕のいい相手なんだが……。あれが古道具屋から出て来た時に会ったぎりのように思うよ。それ、君と一緒に甲冑《かっちゅう》を見にいったことがあるだろう。あの店だよ。それはまる三週間まえだ」
この話でコスモはヒントを得たのであった。フォン・スタインワルドと言えば、向う見ずの烈《はげ》しい性情の所有者で、大学でもみんなが怖れている男である。さてはあの男が鏡を持っているに違いないと思ったが、コスモにとっては苦手《にがて》であった。この場合、乱暴な急激手段はいずれにしても成功しそうもない。コスモが望んでいるのは、ただ、かの鏡を打ち割る機会さえ捉《とら》え得ればいいのである。それには時を待つよりほかはない。彼は心のうちにいろいろの手段方法をめぐらしてみたが、どれもまとまらなかった。
とうとうその機会が来た。ある夕方、スタインワルドの家の前をとおると、いくつかの窓にめずらしく賑やかに灯がついているのを見た。しばらく気をつけて見ていると、何かの集まりのために、だんだんに人が入り込んでゆくので、コスモは急いで下宿に帰って、できるだけ贅沢な服装《なり》をして、自分も他の客にまじってその家の中へ無事に入り込むことを考えた。それには、コスモはその風采からいっても申し分はないのであった。
この町の別な処にある高楼《たかどの》の静かな一室に、生きているとは思われない、大理石のような姿をした一人の女が横たわっていた。口を硬くとじ、眼瞼《まぶた》をたたんでいて、その顔には美しい死が彼女を凍らせているかと思われた。その手は胸の上に置かれているが、呼吸《いき》もないようである。この死人のそばには、二、三の人が控えていて、人間の声がまだ生き残っているものを破るのを恐るるごとくに、小さくささやいていた。死人の霊魂は人間のすべての感覚がとどき得ない高い所にあるにもかかわらず、女のそばには二人の婦人が、悲しみを押さえるような極めて静かな声で話していた。
「このかたはもう一時間以上もこうしていられます」
「もう長いことはないかと存じます」
「この数週間のあいだに、どうしてこうもお痩せになったのでございましょう。このかたが何かお話しくだすって、なにを苦しんでいらっしゃるのかおっしゃってさえくださればよろしいのですが、お目ざめになっていましても、どうしてもおっしゃらないのでございます」
「昏睡状態になって、なにもおっしゃりませんでしたか」
「何もお聞き申さないのでございます。それでも、このおかたが時どきお歩きになって、ある時などは一時間のあいだもお見えにならなくなったことがあって、お屋敷じゅうの人たちがびっくりなすったそうでございます。その時、このおかたは雨にお濡れになってお疲れと恐れのために死んだようになっていらしったそうで……。その時でさえも、どんなことが起こったのか、なにもおっしゃらなかったそうでございます」
この時、そばについている人たちは、動かない死人の女の口から聞こえるか聞こえないかの弱い声をきいてびっくりした。つづいて何かしきりにわけの分からないような言葉が出たかと思うと、そのうちに、「コスモ」という言葉が彼女の口から出た。それからしばらくの間、またそのままに眠っていたが、突然大きい叫び声を立てて、寝台の上に飛びあがって、両手を強く握り
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