どうぞお間違いのないように……」と、売りぬしは念を押した。
「名誉にかけて、きっと間違いはないよ」と、買い手は言った。
これで売り買いは成り立ったのである。
コスモが鏡を手にとると、老人は、「お宅までわたくしがお届け申しましょう」と、言った。
「いや、いや、私が持って行くよ」と、コスモは言った。
彼は自分の住居を他人に見せることをひどく嫌っていた。ことにこんな奴、だんだんに嫌悪《けんお》の情の加わってくるこんな人間に、自分の住居を見られるのは忌《いや》であった。
「では、ご随意に……」と、おやじは言った。
彼はコスモのために灯を見せて、店から送り出してしまうと、独りでつぶやいた。
「あの鏡を売るのも六度目だ。もう今度あたりでおしまいにしてもらいたいな。あの女ももうたいてい満足するだろうに……」
二
コスモは自分の獲物を注意して持ち帰った。その途中も、誰かそれを見付けはしないか、誰か後から尾《つ》けて来はしないかという懸念で、絶えず不安を感じていた。彼は幾たびか自分のまわりを見まわしたが、別に彼のうたがいをひくようなこともなかった。かりに彼の後を尾《つ》ける者があるとしても、いかに巧妙なる間者《スパイ》でもその正体を暴露するであろうと思われるほどに、町は非常に混雑して、町の灯は非常に明かるかった。
コスモはつつがなく下宿に帰り着いて、買って来た鏡を壁にかけた。彼は体力の強い男であったが、それでも帰って来たときには、鏡の重さから逃がれて、初めて救われたように感じた。彼はまずパイプに火をつけて、寝台に体をなげ出して、すぐにまた、いつもの幻想にいだかれてしまった。
次の日、かれは常よりも早く家へ帰って、長い部屋の片端にある炉《ろ》の上の壁にかの鏡をかけた。それから丁寧に鏡のおもての塵《ちり》を拭き去ると、鏡は日光にかがやく泉のように清くみえて、覆いをかけた下からも晃《ひか》っていた。しかも彼の興味は、やはり鏡のふちの彫刻にあった。それを出来るだけ綺麗にブラッシュをかけて、その彫刻のいろいろの部分について製作者の意図が那辺《なへん》にあったかを見いだすために、精密な研究を始めたが、それは不成功に終わった。後には退屈になって失望のうちにやめてしまった。そうして、鏡に映る部屋のなかをしばらくぼんやりと眺めていたが、やがて半ば叫ぶような声で言った。
「この鏡はふしぎな鏡だな。この鏡に映る影と、人間の想像とのあいだに何か不思議な関係がある。この部屋と、鏡に映っている部屋と、同じものでありながら、しかもだいぶ違っている。これは僕が現在住まっている部屋のありさまとは違って、僕の小説のなかで読んだ部屋のように見える。すべてありのままとは違っている。一切のものは事実のさかいを脱して芸術の境地に変わっている。普通ならば、ただ粗末な赤裸裸《せきらら》の物が、僕にはすべて興味あるものに見える。ちょうど舞台の上に一人の登場人物が出て来ただけで、もうこの退屈で堪えられない人生から逃がれて愉快になるようなものである。芸術というものは、疲れ切った日常の感覚から逃がれ、不安な日常の生活から離れて自然に帰り、また、われわれの住む世界から懸け離れた想像に訴えて、自然をある程度まであるがままに生かして、あたかも毎日なんの野心もなく、なんの恐れをも持たずに生活している子供の眼に、そのまわりをめぐる驚異の世界を示して、それに対してなんの疑いをも懐《いだ》かしめないようにするがごときものではあるまいか。今のあの鏡のうちにうつる骸骨をみると、怖ろしい姿に見える。その骸骨はこの忙がしい世界を隔てて、さらに遠い世界をながめる望楼のように、見えない物をも見るかのごとく寂然《せきぜん》として立っている。またその骨や、その関節は、僕自身の拳《こぶし》のように生けるがごとくに見える。……さらにまた、鏡のうちにうつる戦闘用の斧《おの》を見ろ。それはあたかも甲冑《かっちゅう》をつけた何者かがその斧を手に持って、力強い腕で相手の兜《かぶと》を打ち割り、頭蓋骨や脳を打ち砕き、他の迷える幽霊とともに未知の世界を侵略しているようにも見える。もし出来るものならば、僕はあの鏡のうちの部屋に住みたい」
こんな囈語《うわこと》めいたことを言いながら、鏡のうちを見つめて起《た》ちあがるや、彼は異常の驚きに打たれた。鏡にうつっている部屋の扉《ドア》をあけて、音もなく、声もなく、全身に白い物をまとっている婦人の美しい姿があらわれたのである。婦人は憂わしげな、消ゆるがごとき足取りで、彼に背中をみせながら、しずかに部屋のはずれの寝台に行き、わびしげにそこへ腰をおろして、悩ましげな、悲しげな表情をその美しい眼に浮かべながら、無言の愛情をこめた顔をコスモの方へ振り向けた。
コスモはしばらく身
前へ
次へ
全11ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング