動きもせずに、避《よ》けるに避けられぬその眼を彼女の上にそそいだ。動けば動かれるとは思いながら、さて振り返って、鏡のなかならぬ本当の部屋にむかって、まともに彼女を見るほどの勇気も出なかった。しかも最後に、思わずふっ[#「ふっ」に傍点]と寝台の方を見かえると、そこには何の影もなかった。驚きと怖れとが一つになって、再び鏡にむかうと、鏡のうちには依然として美女の姿が見えるのである。彼女は今や眼をとじて、その睫毛《まつげ》のあいだからは熱い涙をながしつつ、その胸に深い溜め息をつくばかりで、死せるがごとくに静かであった。
 コスモは自分の心持ちを、自分で何とも言いあらわすことが出来ないくらいであった。彼はもう自覚を失って、ふたたび元へはかえらない人になってしまった。彼はもう鏡のそばに立っていられなくなった。それでも、貴女《きじょ》に対して失礼だとは心苦しく思いながら、また彼女が眼をあいて自分と眼を見合わせはしないかと恐れながら、なお、いつまでもじっと彼女を見つめていた。やがて彼は少しく気が楽になった。彼女はしずかに眼瞼《まぶた》をひらいたが、その眼にはもう涙が宿っていなかった。そうして、しばらくぼんやりしていたが、やがてまた、あたりの物を見ようとするかのように、部屋のうちを見まわしていたが、その眼はコスモの方へ向けられなかった。
 鏡にうつっている部屋のうちには、彼女の眼を惹《ひ》いた物はないらしかった。そうして、最後に彼を見るとしても、彼は鏡にむかっているのであるから、当然その背中しか見えないわけである。鏡のうちに現われている二人の姿――それは現在の部屋において彼がうしろ向きにならない限り、彼と彼女とが顔を見あわせることが出来ないのである。しかも彼がうしろを向けば、現在の部屋には彼女の姿は見いだせないのである。そうなると、鏡のうちの彼女からは、彼が空《くう》を見ているように眺められて、眼と眼がぴったりと出合わないために、かえって相互の心を強く接近させるかとも思われた。
 彼女はだんだんに骸骨の上に眼を落とした。そうして、それを見るとにわかにふるえて眼をとじたように思われた。彼女は再び眼をひらかなかったが、その顔にはいつまでも嫌悪《けんお》の色が残っていた。コスモはこの忌《いや》な物をすぐに取りのけようかと思ったが、それがために自分の存在を彼女に知らせたらば、あるいは彼女に不安を与えはしないかという懸念があったので、彼はそのままにして立ちながら彼女をながめていると、彼女の眼瞼は宝玉をおさめた貴い箱のように、その眼をつつんでいた。そのうちに、彼女の困惑の表情は次第に顔の上から消えていって、わずかに悲しみの表情を残しているばかりになった。その姿は動かないらしく、ただその呼吸するごとに規則正しいからだの動きを見るばかりになった。コスモは彼女の眠ったことを知った。
 彼は今や何の遠慮もなしに彼女を見つめることが出来た。かれは質素な白い長い着物を着ている彼女の寝すがたを見た。その白い着物がいかにもよくその顔に値いして、いい調和をなしていた。しなやかなその足、おなじように優しい手、それらは彼女がすべての美をあらわして、その寝すがたは彼女の完全な肢体のくつろぎを見せていた。
 コスモは飽きるほどそれを見つめていた。のちにはこの新しく発見した神殿のほとりに座を占めて、さながら病床に侍座《じざ》する人のように、機械的に書物を手にとった。書物をみても、心はそのページの上に集中しないのである。彼は今までの経験にまったく反対している目前の出来事にひどく驚かされているばかりで、その驚きは断定的、思索的、自覚的などということなしに、単なる受動的のものであった。しかし、そういうなかにもコスモの空想は彼一流の夢を送って、一種の陶酔に入っていた。
 彼は自分でも分からないほど長く腰をかけていたが、やがて驚いて起《た》ちあがって総身《そうみ》をふるわせながら再び鏡をながめると、鏡のうちに女はもういなかった。鏡はただこの部屋をあるがままにうつすのみで、ほかには何物もみえなかった。それは中央の宝石を取り去られた金の象嵌《ぞうがん》のごとく、または夜の空にかがやく星の消えたるがごとくであった。彼女はその姿と共に、鏡のうちにうつっていた一切のめずらかなる物を持ち去って、鏡の外にある物となんの異ることもなくなってしまった。それを見て彼はいったん失望したが、彼女はきっと再び帰って来るに相違ない、たぶん、あしたの夜も同じ時刻に帰って来るという希望をいだいて自ら慰めていた。そうして、もし彼女が重ねて来たならば、かの骸骨をみせて忌《いや》な心持ちを起こさせないようにするばかりでなく、すべて彼女に不愉快をあたえそうな物は、鏡にうつらない部屋の隅にことごとく移して、出来るだけこの部屋のうちを取
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