いる様子も消えていって、さらに平静な、希望ある表情が浮かんできたのであった。
 この間に、コスモはどうであったかというに、彼の性情から誰しも考え得られるるように、恋の心を起こしたのであった。恋、それは充分に熟してきた恋である。しかも悲しいことには、彼は影に恋しているのである。近づくことも、言葉を伝えることも出来ない。彼女の美しい口唇《くちびる》から言葉をきくことも出来ない。ただ蜜蜂が蜜壺を見るがごとくに、彼は眼で彼女を求めているばかりである。彼は絶えず独りで歌っていた。
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われは死なむ処女《おとめ》の愛に……
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 コスモは愛慕の情に胸を破らるるばかりであったが、さすがに死ぬことはできなかった。彼女のために心尽くしをすればするほど、彼女への恋は弥増《いやま》してゆくばかりであった。たとい彼女がコスモに近づくことがないにしても、見知らぬ人間が彼女のために生命を捧ぐるまでに恋いこがれているということを、彼女が喜んでくれればそれでいいと望んでいた。コスモは自分と彼女とが今はこうして離れているが、いつかは彼女が自分を見て何かの合図をしてくれるものと思って、ひそかに自分を慰めていた。なぜといえば、「すべて恋する人の心は相手に通ずるものである」また、「実際、どれだけの愛人たちが、この鏡のうちと同じように、ただ見るばかりでそれ以上近づき得られないでいるか。知っているようで、また知っていないようで、相手の心に触れるひまもなく、ただこの宇宙のような漠然とした心持ちだけで何年もの間をさまよいあるいているか」また、「自分がもし彼女と語ることが出来さえすれば、彼女が自分の言うことを聴いてさえくれれば、それだけで自分は満足する」――コスモはそう思ったりした。あるときは、彼は壁に絵をかいて、自分の思いを伝えようかと思ったが、いざやって見ると、絵の上手な割りには手がふるえて描けなかった。彼はそれもやめてしまったのであった。
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生けるものは死し、死するものまた生く。
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 ある夜のことであった。コスモは自分の宝である彼女を見つめていると、彼女はコスモの熱情ある眼が自分に注がれていることを知ったらしい自覚の顔色をほのかに現わしたのを見たのであった。[#「。」は底本では「。、」]彼女もしまいには、首から頬、額にかけ
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