安を与えはしないかという懸念があったので、彼はそのままにして立ちながら彼女をながめていると、彼女の眼瞼は宝玉をおさめた貴い箱のように、その眼をつつんでいた。そのうちに、彼女の困惑の表情は次第に顔の上から消えていって、わずかに悲しみの表情を残しているばかりになった。その姿は動かないらしく、ただその呼吸するごとに規則正しいからだの動きを見るばかりになった。コスモは彼女の眠ったことを知った。
彼は今や何の遠慮もなしに彼女を見つめることが出来た。かれは質素な白い長い着物を着ている彼女の寝すがたを見た。その白い着物がいかにもよくその顔に値いして、いい調和をなしていた。しなやかなその足、おなじように優しい手、それらは彼女がすべての美をあらわして、その寝すがたは彼女の完全な肢体のくつろぎを見せていた。
コスモは飽きるほどそれを見つめていた。のちにはこの新しく発見した神殿のほとりに座を占めて、さながら病床に侍座《じざ》する人のように、機械的に書物を手にとった。書物をみても、心はそのページの上に集中しないのである。彼は今までの経験にまったく反対している目前の出来事にひどく驚かされているばかりで、その驚きは断定的、思索的、自覚的などということなしに、単なる受動的のものであった。しかし、そういうなかにもコスモの空想は彼一流の夢を送って、一種の陶酔に入っていた。
彼は自分でも分からないほど長く腰をかけていたが、やがて驚いて起《た》ちあがって総身《そうみ》をふるわせながら再び鏡をながめると、鏡のうちに女はもういなかった。鏡はただこの部屋をあるがままにうつすのみで、ほかには何物もみえなかった。それは中央の宝石を取り去られた金の象嵌《ぞうがん》のごとく、または夜の空にかがやく星の消えたるがごとくであった。彼女はその姿と共に、鏡のうちにうつっていた一切のめずらかなる物を持ち去って、鏡の外にある物となんの異ることもなくなってしまった。それを見て彼はいったん失望したが、彼女はきっと再び帰って来るに相違ない、たぶん、あしたの夜も同じ時刻に帰って来るという希望をいだいて自ら慰めていた。そうして、もし彼女が重ねて来たならば、かの骸骨をみせて忌《いや》な心持ちを起こさせないようにするばかりでなく、すべて彼女に不愉快をあたえそうな物は、鏡にうつらない部屋の隅にことごとく移して、出来るだけこの部屋のうちを取
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