けられてしまったのです。まったくその十分間は恐怖の餌《えさ》になって、その怖ろしさが絶えず私の心に残っているのです。不意に物音がきこえると、私は心からぞっとします。夕方の薄暗いときに何か怪しい物をみると、わたしは逃げ出したくなります。私は夜を恐れています。
 いや、私もこの年になるまでは、こんなことを口外しませんでしたが、今はもう一切をお話し申してもよろしいのです。八十二歳の老人が空想的の危険を恐れることはあっても、実際的の危険に再び遭遇することはありませんでした。奥さんたちもお聴きください。その事件は私がけっして話すことができないほどに、わたしの心を転倒させ、深い不可思議な不安を胸いっぱいに詰め込んでしまったのです。私はわれわれの悲哀や、われわれの恥かしい秘密や、われわれの人生の弱点や、どうも他人にむかって正直に告白することのできないものを、今まで心の奥底に秘めておきました。
 私はこれから何の修飾も加えずに、不思議の事件をただありのままに申し上げましょう。その真相はわたし自身にもなんとも説明のしようがない。まずその短時間のあいだ私が発狂したとでも言うよりほかはありますまい。しかし私
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