らべてあるばかりで、その一つには今まで誰かがそこに寝ていたように、頭や肱《ひじ》の痕がありありと深く残っていました。
 椅子はみな取り散らされて、おそらく戸棚であろうと思われる扉も少しあけかけたままになっていました。私はまず窓ぎわへ行って、明かりを入れるために戸をあけたが、外の鎧戸《よろいど》の蝶つがいが錆びているので、それを外すことが出来ない。剣でこじあけようとしたが、どうもうまくゆきませんでした。こんなことをしているうちに、私の眼はいよいよ暗いところに馴れてきたので、窓をあけることはもう思い切って、わたしは机のほうへ進み寄りました。そうして、肱かけ椅子に腰をおろして抽斗《ひきだし》をあけると、そのなかには何かいっぱいに詰まっていましたが、わたしは三包みの書類と手紙を取り出せばいいので、それはすぐに判るように教えられているのですから、早速それを探し始めました。
 私はその表書きを読み分けようとして、暗いなかに眼を働かせている時、自分のうしろの方で軽くかさり[#「かさり」に傍点]という音を聴きました。聴いたというよりも、むしろ感じたというのでしょう。しかしそれは隙間《すきま》を洩る風がカーテンを揺すったのだろうぐらいに思って、わたしは別に気にもとめなかった。ですが、そのうちにまた、かさり[#「かさり」に傍点]という、それが今度はよほどはっきりと響いて、わたしの肌になんだかぞっとするような不愉快な感じをあたえましたが、そんな些細《ささい》なことにいちいちびくびくして振り向いているのも馬鹿らしいので、そのままにして探し物をつづけていました。ちょうど第二の紙包みを発見して、さらに第三の包みを見つけた時、私の肩に近いあたりで悲しそうな大きい溜め息がきこえたので、私もびっくりして二ヤードほどもあわてて飛びのいて、剣の柄《つか》に手をかけながら振り返りました。剣を持っていなかったら、私は臆病者になって逃げ出したに相違ありません。
 ひとりの背の高い女が白い着物をきて、今まで私が腰をかけていた椅子のうしろに立って、ちょうど私と向かい合っているのです。私はほとんど引っくり返りそうになりました。そのときの物凄《ものすご》さはおそらく誰にもわかりますまい。もしあなたがたがそれを見たらば、魂は消え、息は止まり、総身《そうみ》は海綿のように骨なしになって、からだの奥までぐずぐずに頽《くず》れてしまうことでしょう。
 わたしは幽霊などを信じる者ではありません。それでも、死んだ者のなんともいえない怖ろしさの前には降参してしまいました。わたしは実に困りました。しばしは途方に暮れました。その後、一生の間にあの時ほど困ったことはありません。
 女がそのままいつまでも黙っていたならば、私は気が遠くなってしまったでしょう。しかも女は口を利《き》きました。私の神経を顫《ふる》わせるような優しい哀れな声で話しかけました。この時、わたしは自分の気を取り鎮めたとはいわれません。実は半分夢中でしたが、それでも私には一種の誇りがあり、軍人としての自尊心もあるので、どうやらこうやら形を整えることが出来たのです。わたしは自分自身に対して、また、かの女に対して――それが人間であろうとも、化け物であろうとも――威儀を正しゅうすることになりました。相手が初めて現われたときには、何も考える余裕はなかったのですが、ここに至って、まずこれだけのことが出来るようになったのです。しかし内心はまだ怖れているのでした。
「あなた、ご迷惑なお願いがあるのでございますが……」
 わたしは返事をしようと思っても言葉が出ないで、ただ、あいまいな声が喉《のど》から出るばかりでした。
「肯《き》いてくださいますか」と、女は続けて言った。「あなたは私を救ってくださることが出来るのです。わたしは実に苦しんでいるのです、絶えず苦しんでいるのです。ああ、苦しい」
 そう言って、女はしずかに椅子に坐って、わたしの顔を見ました。
「肯いてくださいますか」
 私はまだはっきりと口がきけないので、黙ってうなずくと、女は亀の甲でこしらえた櫛をわたしに渡して、小声で言いました。
「わたしの髪を梳《す》いてください。どうぞ私の髪を梳いてください。そうすれば、わたしを癒《なお》すことが出来るでしょう。わたしの頭を見てください。どんなに私は苦しいでしょう。わたしの髪を見てください。どんなに髪が損じているでしょう」
 女の乱れた髪ははなはだ長く、はなはだ黒く、彼女が腰をかけている椅子を越えて、ほとんど床に触れるほどに長く垂れているように見えました。
 わたしはなぜそれをしたか。私はなぜ顫《ふる》えながらその櫛をうけ取って、まるで蛇をつかんだように冷たく感じられる女の髪に自分の手を触れたか。それは自分にも分からないのですが、そのときの冷たい
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