ような感じはいつまでも私の指に残っていて、今でもそれを思い出すと顫えるようです。
 どうしていいか知りませんが、わたしは氷のような髪を梳いてやりました。たばねたり解いたりして、馬の鬣毛《たてがみ》のように一つの組糸としてたばねてやると、女はその頭を垂れて溜め息をついて、さも嬉しそうに見えましたが、やがて突然に言いました。
「ありがとうございました」
 わたしの手から櫛を引ったくって、半分あいているように思われた扉から逃げるように立ち去ってしまいました。ただひとり取り残されて、私は悪夢から醒めたように数秒間はぼんやりとしていましたが、やがて意識を回復すると、ふたたび窓ぎわへ駈けて行って、めちゃくちゃに鎧戸をたたきこわしました。
 外のひかりが流れ込んできたので、私はまず女の出て行った扉口へ駈けよると、扉には錠がおりていて、あけることの出来ないようになっているのです。もうこうなると、逃げるよりほかはありません。わたしは抽斗をあけたままの机から三包みの手紙を早《そう》そうに引っつかんで、その部屋をかけ抜けて、階子段を一度に四段ぐらいも飛び下りて、表へ逃げ出しました。さてどうしていいか分かりませんでしたが、幸いそこに私の馬がつないであるのを見つけたので、すぐにそれへ飛び乗って全速力で走らせました。[#底本では「。」なし]
 ルーアンへ到達するまでひと休みもしないで、わたしの家の前へ乗りつけました。そこにいる下士に手綱を投げるように渡して、私は自分の部屋へ飛び込んで、入り口の錠をおろして、さて落ちついて考えてみました。
 そこで、自分は幻覚にとらわれたのではないかということを一時間も考えました。たしかにわたしは一種の神経的な衝動から頭脳《あたま》に混乱を生じて、こうした超自然的の奇蹟を現出したのであろうと思いました。ともかくもそれが私の幻覚であるということにまず決めてしまって、私は起《た》って窓のきわへ行きました。そのときふと見ると、私の下衣《したぎ》のボタンに女の長い髪の毛がいっぱいにからみついているではありませんか。わたしはふるえる指さきで、一つ一つにその毛を摘み取って、窓の外へ投げ捨てました。
 わたしは下士を呼びました。わたしはあまりに心も乱れている、からだもあまりに疲れているので、今日すぐに友達のところへ尋ねて行くことは出来ないばかりか、友達に逢ってなんと話していいかをも考えなければならなかったからです。
 使いにやった下士は、友達の返事を受け取って来ました。友達はかの書類をたしかに受け取ったと言いました。彼はわたしのことを聞いたので、下士は私の快《よ》くないということを話して、たぶん日射病か何かに罹《か》かったのであろうと言うと、彼は悩ましげに見えたそうです。

 わたしは事実を打ち明けることに決めて、翌日の早朝に友達をたずねて行くと、彼はきのうの夕《ゆう》に外出したままで帰ってこないというのです。その日にまた出直して行きましたが、彼はやはり戻らないのです。それから一週間待っていましたが、彼はついに戻らないので、私は警察に注意しました。警察でもほうぼうを捜索してくれましたが、彼が往復の踪跡《そうせき》を発見することが出来ませんでした。
 かの空家も厳重に捜索されましたが、結局なんの疑うべき手がかりも発見されませんでした。そこに女が隠されていたような形跡もありませんでした。取り調べはみな不成功に終わって、この以上に捜索の歩を進めようがなくなってしまいました。
 その後五十六年の間、わたしはそれについてなんにも知ることが出来ません。私はついに事実の真相を発見し得ないのです。



底本:「世界怪談名作集 下」河出文庫、河出書房新社
   1987(昭和62)年9月4日初版発行
入力:もりみつじゅんじ
校正:多羅尾伴内
2003年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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