イルに過ぎないのですから、私にとってはちょうどいい遠足で、馬でゆけば一時間ぐらいで到着することが出来るのでした。
 明くる朝の十時ごろに、二人は一緒に朝飯を食いました。しかし彼は格別の話もせず、わずかに二十語ほど洩らしたのちに、もう帰ると言い出したのです。ただ、わたしが頼まれてゆく彼の部屋には、彼の幸福が打ちくだかれて残っていて、私がそこへ尋ねてゆくということを考えるだけでも、彼は自分の胸のうちに一種秘密の争闘が起こっているかのように、ひどく不安であるらしく見えましたが、それでも結局わたしに頼むことを正直に打ち明けました。それははなはだ簡単な仕事で、きのうもちょっと話した通り、机の右のひきだしに入れてある手紙のふた包みと書類とを取り出して来てくれろというだけのことでした。そうして、彼は最後にこの一句を付け加えました。
「その書類を見てくれるなとは言わないよ」
 はなはだ失礼な言葉に、わたしは感情を害しました。人の重要書類を誰がむやみに見るものかと、やや激しい語気できめつけると、彼も当惑したように口ごもりました。
「まあ堪忍《かんにん》してくれたまえ。私はひどくぼんやりしているのだから」と、こう言って、彼は涙ぐんでいました。

 その日の午後一時ごろに、わたしはこの使いを果たすために出発しました。きょうはまぶしいほどに晴れた日で、わたしは雲雀《ひばり》の歌を聴きながら、乗馬靴に調子を取って戞《かつ》かつとあたる帯剣の音を聴きながら、牧場を乗りぬけて行きました。そのうちに森のなかに入り込んだので、わたしは馬を降りて歩きはじめると、木の枝が柔かに私の顔をなでるのです。わたしは時どきに木の葉の一枚をむしり取って、歯のあいだで囓《か》んだりしました。この場合、なんとも説明のできない愉快を感じたのです。
 教えられた家に近づいた時に、私は留守番の園丁に渡すはずの手紙を取り出すと、それには封がしてあるので、私は驚きました。これでは困る。いっそこのままに引っ返そうかと、すこぶる不快を感じましたが、また考えると、彼もあの通りぼんやりしているのであるから、つい迂闊《うか》と封をしてしまったのかもしれない。まあ、悪く取らないほうがいいと思い直したのです。そこでよく見ると、この別荘風の建物は最近二十年ぐらいは空家《あきや》になっていたらしく、門は大きくひらいたままで腐っていて、草は路を埋め
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