れてしまうことでしょう。
 わたしは幽霊などを信じる者ではありません。それでも、死んだ者のなんともいえない怖ろしさの前には降参してしまいました。わたしは実に困りました。しばしは途方に暮れました。その後、一生の間にあの時ほど困ったことはありません。
 女がそのままいつまでも黙っていたならば、私は気が遠くなってしまったでしょう。しかも女は口を利《き》きました。私の神経を顫《ふる》わせるような優しい哀れな声で話しかけました。この時、わたしは自分の気を取り鎮めたとはいわれません。実は半分夢中でしたが、それでも私には一種の誇りがあり、軍人としての自尊心もあるので、どうやらこうやら形を整えることが出来たのです。わたしは自分自身に対して、また、かの女に対して――それが人間であろうとも、化け物であろうとも――威儀を正しゅうすることになりました。相手が初めて現われたときには、何も考える余裕はなかったのですが、ここに至って、まずこれだけのことが出来るようになったのです。しかし内心はまだ怖れているのでした。
「あなた、ご迷惑なお願いがあるのでございますが……」
 わたしは返事をしようと思っても言葉が出ないで、ただ、あいまいな声が喉《のど》から出るばかりでした。
「肯《き》いてくださいますか」と、女は続けて言った。「あなたは私を救ってくださることが出来るのです。わたしは実に苦しんでいるのです、絶えず苦しんでいるのです。ああ、苦しい」
 そう言って、女はしずかに椅子に坐って、わたしの顔を見ました。
「肯いてくださいますか」
 私はまだはっきりと口がきけないので、黙ってうなずくと、女は亀の甲でこしらえた櫛をわたしに渡して、小声で言いました。
「わたしの髪を梳《す》いてください。どうぞ私の髪を梳いてください。そうすれば、わたしを癒《なお》すことが出来るでしょう。わたしの頭を見てください。どんなに私は苦しいでしょう。わたしの髪を見てください。どんなに髪が損じているでしょう」
 女の乱れた髪ははなはだ長く、はなはだ黒く、彼女が腰をかけている椅子を越えて、ほとんど床に触れるほどに長く垂れているように見えました。
 わたしはなぜそれをしたか。私はなぜ顫《ふる》えながらその櫛をうけ取って、まるで蛇をつかんだように冷たく感じられる女の髪に自分の手を触れたか。それは自分にも分からないのですが、そのときの冷たい
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