世界怪談名作集
ラザルス
レオニード・ニコラエヴィッチ・アンドレーエフ
岡本綺堂訳

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)家《うち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)酒機嫌の|酒森の神《キテイール》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]
−−

 一

 三日三晩のあいだ、謎のような死の手に身をゆだねていたラザルスが、墓から這い出して自分の家《うち》へ帰って来た時には、みんなも暫くは彼を幽霊だと思った。この死からよみがえったということが、やがてラザルスという名前を恐ろしいものにしてしまったのである。
 この男が本当に再生した事がわかった時、非常に喜んで彼を取り巻いた連中は、引っ切りなしに接吻してもまだ足りないので、それ食事だ飲み物だ、それ着物だと、何から何までの世話をやいて、自分たちの燃えるような喜びを満足させた。そのお祭り騒ぎのうちに彼は花聟さまのように立派に着飾らせられ、みんなの間に祭り上げられて食事を始めると、一同は感きわまって泣き出した。それから主人公たちは近所の人々を呼び集めて、この奇蹟的な死からよみがえった彼を見せて、もう一度それらの人々とその喜びを倶《とも》にした。近所の町や近在からも見識らぬ人たちがたずねて来て、この奇蹟を礼讃して行った。ラザルスの姉妹《きょうだい》のマリーとマルタの家は、蜜蜂の巣箱のように賑やかになった。
 そういう人達に取っては、ラザルスの顔や態度に新しく現われた変化は、みな重病と最近に体験した種々の感動の跡だと思われていた。ところが、死に依るところの肉体の破壊作用が単に奇蹟的に停止されたというだけのことで、その作用の跡は今も明白に残っていて、その顔や体《からだ》はまるで薄いガラス越しに見た未完成のスケッチのように醜《みにく》くなっていた。その顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》の上や、両眼の下や、両頬の窪みには、濃い紫の死びと色があらわれていた。又その色は彼の長い指にも爪ぎわにもあった。その紫色の斑点は、墓の中でだんだんに濃い紅色になり、やがて黒くなって崩れ出す筈のものであった。墓のなかで脹れあがった唇の皮はところどころに薄い赤い亀裂《ひび》が出来て、透明な雲母のようにぎらぎらしていた。おまけに、生まれつき頑丈な体は墓の中から出て来ても依然として怪物のような格好をしていた上に、忌《いや》にぶくぶくと水ぶくれがして、その体のうちには腐った水がいっぱいに詰まっているように感じられた。墓衣《はかぎ》ばかりでなく、彼の体にまでも滲み込んでいた死びとのような強い匂いはすぐに消えてしまい、とても一生涯癒りそうもなかった唇のひびも幸いに塞がったが、例の顔や手のむらさきの斑点はますますひどくなって来た。しかも、埋葬前に彼を棺桶のなかで見たことのある人達には、それも別に気にならなかった。
 こういうような肉体の変化と共に、ラザルスの性格にも変化が起こって来たのであるが、そこまではまだ誰も気が付かなかった。墓に埋められる前までのラザルスは快活で、磊落《らいらく》で、いつも大きい声を出して笑ったり、洒落を言ったりするのが好きであった。したがって彼は、神様からもその悪意や暗いところの微塵もないからり[#「からり」に傍点]とした性質を愛《め》でられていた。ところが、墓から出て来た彼は、生まれ変わったように陰気で無口な人になってしまって、決して自分から冗談などを言わなくなったばかりではなく、相手が軽口を叩いてもにこり[#「にこり」に傍点]ともせず、自分がたまに口をきいても、その言葉は極めて平凡普通であった。よんどころない必要に迫られて、心の奥底から無理に引き出すような言葉は、喜怒哀楽とか飢渇とかの本能だけしか現わすことの出来ない動物の声のようであった。無論、こうした言葉は誰でも一生のうちに口にする事もあろうが、人間がそれを口にしたところで、何が心を喜ばせるのか、苦しませるのか、相手に理解させることは出来ないものである。
 顔や性格の変化に人々が注目し始めたのは後の事で、かれが燦爛たる黄金や貝類が光っている花聟の盛装を身につけて、友達や親戚の人たちに取り囲まれながら饗宴の席に着いていた時には、まだ誰もそんなことに気が付かなかった。歓喜の声の波は、あるいはさざなみのごとくに、あるいは怒濤のごとくに彼を取り巻き、墓の冷気で冷やかになっている彼の顔の上には温かい愛の眼がそそがれ、一人の友達はその熱情を籠めた手のひらで彼のむらさき色の大きな手を撫でていた。
 やがて鼓や笛や、六絃琴や、竪琴で音楽が始まると、マリーとマルタの家はまるで蜂や、蟋蟀や、小鳥の鳴き声で掩われてしまったように賑やかになった。


 二

 客の一人がふとした粗相でラザルスの顔のベールをはずした途端に、あっ[#「あっ」に傍点]と声を立てて、今まで彼に感じていた敬虔な魅力から醒めると、事実がすべての赤裸な醜《みにく》さのうちに暴露された。その客はまだ本当に我にかえらないうちに、もうその唇には微笑が浮かんで来た。
「むこうで起こった事を、なぜあなたは私たちにお話しなさらないのです。」
 この質問に一座の人々はびっくりして、俄かに森《しん》となった。かれらはラザルスが三日のあいだ墓のなかで死んでいたということ以外に、別に彼の心身に変わったことなぞはないと思っていたので、ラザルスの顔を見詰めたまま、どうなることかと心配しながらも彼の返事を待っていた。ラザルスはじっと黙っていた。
「あなたは私たちには話したくないのですね。あの世というところは恐ろしいでしょうね。」
 こう言ってしまってから、その客は初めて自分にかえった。もしそうでなく、こういう前に我にかえっていたら、その客はこらえ切れない恐怖に息が止まりそうになった瞬間に、こんな質問を発する筈はなかったであろう。不安の念と待ち遠しさを感じながら、一同はラザルスの言葉を待っていたが、彼は依然として俯向いたままで、深い冷たい沈黙をつづけていた。そうして、一同は今更ながらラザルスの顔の不気味な紫色の斑点や、見苦しい水脹れに注目した。ラザルスは食卓ということを忘れてしまったように、その上に彼の紫の瑠璃色の拳《こぶし》を乗せていた。
 一同は、待ち構えている彼の返事がそこからでも出てくるように、じーっとラザルスの拳に見入っていた。音楽師たちはそのまま音楽をつづけてはいたが、一座の静寂はかれらの心にまでも喰い入って来て、掻き散らされた焼木杭《やけぼっくい》に水をかけたように、いつとはなしに愉快な音色はその静寂のうちに消えてしまった。笛や羯鼓《かっこ》や竪琴の音も絶えて、七絃琴は糸が切れたように顫えてきこえた。一座ただ沈黙あるのみであった。
「あなたは言いたくないのですか。」
 その客は自分のおしゃべりを抑え切れずに、また同じ言葉を繰り返して言ったが、ラザルスの沈黙は依然として続いていた。不気味な紫の瑠璃色の拳も依然として動かなかった。やがて彼は微かに動き出したので、一同は救われたようにほっ[#「ほっ」に傍点]とした。彼は眼をあげて、疲労と恐怖とに満ちたどんよりとした眼でじっと部屋じゅうを見廻しながら、一同を見た。――死からよみがえったラザルスが――
 以上は、彼が墓から出て来てから三日目のことであった。もっともそれまでにも、絶えず人を害するような彼の眼の力を感じた人たちもたくさんあったが、しかもまだ彼の眼の力によって永遠に打ち砕かれた人や、あるいはその眼のうちに「死」と同じように「生」に対する神秘的の反抗力を見いだした者はなく、彼の黒いひとみの奥底にじーっと動かずに横たわっている恐怖の原因を説明することも出来なかった。そうして、この三日の間、ラザルスはいかにも穏かな、質朴な顔をして、何事も隠そうなどという考えは毛頭なかったようであったが、その代りに又、何ひとつ言おうというような意思もなかった。彼はまるで人間界とは没交渉な、ほかの生物かと思われるほどに冷やかな顔をしていた。
 多くの迂闊な人たちは往来で彼に近づいても気が付かなかった。そうして、眼も眩《くら》むような立派な着物をきて、触れるばかりにのそりのそりと自分のそばを通って行く冷やかな頑丈な男はいったい誰であろうかと、思わずぞっとした。無論、ラザルスが見ている時でも、太陽はかがやき、噴水は静かな音を立てて湧き出で、頭の上の大空は青々と晴れ渡っているのであるが、こういう呪われた顔かたちの彼に取っては、噴水のささやきも耳には入らず、頭の上の青空も目には見えなかった。ある時は慟哭し、また或る時には我とわが髪を引きむしって気違いのように救いを求めたりしていたが、結局は静かに冷然として死のうという考えが、彼の胸に起こって来た。そこで彼はそれから先きの幾年を諸人の見る前に鬱々と暮らして、あたかも樹木が石だらけの乾枯びた土のなかで静かに枯死するように、生色なく、生気なく、しだいに自分のからだを衰弱させて行った。彼を注視している者のうちには、今度こそは本当に死ぬのではないかと気も狂わんばかりに泣くものもあったが、また一方には平気でいる人もあった。
 話はまた前に戻って、かの客はまだ執拗《しつこ》く繰り返した。
「そんなにあなたは、あの世で見て来たことを私に話したくないのですか。」
 しかしもうその客の声には熱がなく、ラザルスの眼に現われていた恐ろしいほどの灰色の疲れは、彼の顔全体を埃《ほこり》のように掩っていたので、一同はぼんやりとした驚愕を感じながら、この二人を互い違いに見詰めているうちに、かれらはそもそもなんの為にここへ集まって来て、美しい食卓に着いているのか判らなくなって来た。この問答はそのまま沙汰止みになって、お客たちはもう帰宅する時刻だとは思いながら、筋肉にこびりついた懶《ものう》い疲労にがっかりして、暫くそこに腰を下ろしたままであったが、それでもやがて闇の野に飛ぶ鬼火のように一人一人に散って行った。
 音楽師は金を貰ったので再び楽器を手に取ると、悲喜こもごも至るというべき音楽が始まった。音楽師らは俗謡を試みたのであるが、耳を傾けていたお客たちは皆なんとなく恐ろしい気がした。しかもかれらはなぜ音楽師に絃の調子を上げさせたり、頬をはち切れそうにして笛を吹かせたりして、無暗に賑やかな音楽を奏させなければならないのか、なぜそうさせたほうが好いのか、自分たちにもわからなかった。
「なんというくだらない音楽だ。」と、ある者が口を開いたので、音楽師たちはむっとして帰ってしまった。それに続いてお客たちも次々に帰って行った。その頃はもう夜になっていた。
 静かな闇に出て、初めてほっと息をつくと、忽ちかれらの眼の前に盛装した墓衣を着て、死人《しびと》のような紫色の顔をして、かつて見たこともないほどに恐怖の沈滞しているような冷やかな眼をしたラザルスの姿が、物凄い光りのなかに朦朧として浮き上がって来た。かれらは化石したようになって、たがいに遠く離れてたたずんでいると、闇はかれらを押し包んだ。その闇のなかにも三日のあいだ謎のように死んでいた彼の神秘的な幻影はますます明らかに輝き出した。三日間といえば、その間には太陽が三度出てまた沈み、子供らは遊びたわむれ、小川は礫《こいし》の上をちょろちょろと流れ、旅びとは街道に砂ほこりを立てて往来していたのに、ラザルスは死んでいたのであった。そのラザルスが今や再びかれらのあいだに生きていて、かれらに触れ、かれらを見ているではないか。しかも彼の黒いひとみの奥からは、黒ガラスを通して見るように、未知のあの世が輝いているのであった。


 三

 今では友達も親戚もみなラザルスから離れてしまったので、誰ひとりとして彼の面倒を見てやる者もなく、彼の家はこの聖都を取り囲んでいる曠原のように荒れ果てて来た。彼の寝床は敷かれたままで、消えた火をつける者とても無
次へ
全5ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング