ました。なぜお前さんがそんなに暗い顔をして自分の再生を厭うかということが……。酒がないからでしょう。では、まあ仕方がないから、酒なしで語り明かそうではありませんか。話というものはファレルニアンの葡萄酒よりも、よほど人を酔わせると言いますから。」
合図をして、奴隷を遠ざけて、彼はラザルスと二人ぎりになった。そこで再びこのローマの彫刻家は談話を始めたのであったが、太陽が沈んで行くにつれて、彼の言葉にも生気を失って来たらしく、だんだんに力なく、空虚になって、疲労と酒糟《さけかす》に酔ったようにしどろもどろになって、言葉と言葉とのあいだに大空間と大暗黒とを暗示したような黒い割け目を生じた。
「さあ、わたしはお前さんのお客であるから、お前さんはお客に親切にしてくれるでしょうね。客を款待するということは、たとい三日間あの世に行っていた人たちでも当然の義務ですよ。噂によると、三日も墓の中で死んでいたそうですね。墓の中は冷たいに相違ない。そこでその以来、火も酒もなしで暮らすなどという悪い習慣が付いたのですね、私としては大いに火を愛しますね――なにしろ急に暗くなって来ましたからな。お前さんの眉毛と額の線はなかなか面白い線ですね。まるで地震で埋没した不思議な宮殿の廃墟のようですね。しかしなぜお前さんはそんな醜い奇妙な着物を着ているのです。そうそう、私はこの国の花聟たちを見た事があります。その人たちはそんな着物を着ていましたが、別に恐ろしいとも、滑稽とも思いませんでしたが……。お前さんは花聟さんですか。」と、ローマの彫刻家は言った。
太陽は既に消えて、怪物のような黒い影が東の方から走って来た。その影は、あたかも巨人の素足が砂の上を走り出したようでもあった。寒い風の波は背中へまでも吹き込んで来た。
「この暗がりの中だと、さっきよりももっと頑丈な男のように、お前さんは大きく見えますね。お前さんは暗やみを食べて生きているのですか、ラザルスさん。私はほんの小さな火でも得られるなら、もうどんな小さな火でもいいと思いますが……。私はなんとなく寒さを感じて来たのですが、お前さんは毎晩、こんな野蛮な寒い思いをなさるのですか。もしもこんなに暗くなかったら、お前さんが私を眺めているということが判るのですが……。そう、どうも私を見ているような気がしますがね。なぜ私を見つめているのです。しかしお前さんは笑っていますね。」
夜が来て、深い闇が空気を埋めた。
「あしたになって太陽がまた昇ったら、どんなに好いでしょうな。私は、まあ友達などの言うところに依りますと、お前さんも知っている筈の、名の売れた彫刻家です。わたしは創作をします。そうです、まだ実行にまでは行きませんが、私には太陽が要るのです。そうして、その日光を得られれば、私には冷たい大理石に生命をあたえ、響きある青銅を輝く温かい火で鎔《とか》すことが出来るのです。――やあ、お前さんの手がわたしに触れましたね。」
「お出でなさい。あなたは私のお客です。」と、ラザルスは言った。
二人は帰路についた。そうして、長い夜は地球を掩い包んだ。
朝になって、もう太陽が高く昇っているのに、主人のアウレリウスが帰って来ないので、奴隷は主人を捜しに行った。彼は主人とラザルスをそれからそれへと尋ねあるいて、最後に燬《や》くが如くにまばゆい日光を正面に受けながら、二人が黙って坐ったままで、上の方を眺めているのを発見した。奴隷は泣き出して叫んだ。
「旦那さま、あなたはどうなすってしまったのです、旦那さま。」
その日に、アウレリウスはローマへ帰るべく出発した。道中も彼は深い考えに沈み、ほとんど物も言わずに、往来の人とか、船とか、すべての事物から、何物をか頭のなかに烙《や》き付けようとでもするように、一々に注目して行った。沖へ出ると、風が起こって来たが、彼は相変わらず甲板の上に残って、どっと押し寄せては沈んでゆく海を熱心に眺めていた。
家に帰り着くと、彼の友達らはアウレリウスの様子が変わっているのに驚いた。しかし彼はその友達らを鎮めながら意味ありげに言った。
「わたしは遂にそれ[#「それ」に傍点]を発見したよ。」
彼はほこりだらけの旅装束のままで、すぐに仕事に没頭した。大理石はアウレリウスの冴えた槌の音をそのままに反響した。彼は長い間、誰をも仕事場へ入れずに、一心不乱に仕事に努めていたが、ある朝彼はいよいよ仕事が出来上がったから、友達の批評家らを呼び集めるようにと家人に言い付けた。彼は真っ紅な亜麻《あま》織りに黄金を輝かせた荘厳な衣服にあらためて、かれらを迎えた。
「これがわたしの作品だ。」と、彼は深い物思いに耽りながら言った。
それを見守っていた批評家らの顔は深い悲痛な影に掩われて来た。その作品は、どことなく異様な、今までに見慣れていた線は一つもなく、しかも何か新らしい、変わった観念の暗示をあたえていた。細い曲がった一本の小枝、と言うよりはむしろ小枝に似たある不格好な細長い物体の上に、一人の――まるで形式を無視した、醜《みにく》い盲人が斜めに身を支えている。その人物たるや、まったく歪《ゆが》んだ、なにかの塊《かたまり》を引き延ばしたとも、或いはたがいに離れようとして徒らに力なくもがいている粗野な断片の集まりとも見えた。唯どう考えても偶然としか思えないのは、この粗野な断片の一つのもとに、一羽の蝶が真に迫って彫ってあって、その透き通るような翼を持った快活な愛らしさ、鋭敏さ、美しさは、まさに飛躍せんとする抑え難き本能に顫えているようであった。
「この見事な蝶はなんのためなんだね、アウレリウス。」と、誰かが躊躇しながら言った。
「おれは知らない。」と、アウレリウスは答えた。
結局、アウレリウスから本心を聞かされないので、彼を一番愛していた友達の一人が断乎として言った。
「これは醜悪だよ、君。壊してしまわなければいかん。槌を貸したまえ。」
その友達は槌でふた撃ち、この怪奇なる盲人を微塵に砕いてしまって、生きているような蝶だけをそのままに残して置いた。
以来、アウレリウスは創作を絶って、大理石にも、青銅にも、また永遠の美の宿っていた彼の霊妙なる作品にも、まったく見向きもしなくなった。彼の友達らは彼に以前のような仕事に対する熱情を喚起させようというので、彼を連れ出して、他の巨匠の作品を見せたりしたが、依然として無関心なるアウレリウスは微笑《ほほえ》みながら口をつぐんで、美に就いてのかれらのお談議に耳を傾けてから、いつも疲れた気のなさそうな声で答えた。
「だが、それはみな嘘だ。」
太陽のかがやいている日には、彼は自分の壮大な見事な庭園へ出て、日影のない場所を見つけて、太陽のほうへ顔を向けた。赤や白の蝶が舞いめぐって、酒機嫌の|酒森の神《キテイール》のゆがんだ唇からは、水が虹を立てながら大理石の池へ落ちていた。しかしアウレリウスは身動《みじろ》ぎもせずにすわっていた。ずっと遠い、石ばかりの荒野の入口で、熾烈の太陽に直射されながら坐っていたあのラザルスのように――。
五
神聖なるローマ大帝アウガスタス自身がラザルスを召されることになった。皇帝の使臣たちは、婚礼の儀式へ臨むような荘厳な花聟の衣裳をラザルスに着せた。そうして、彼は自分の一生涯をおそらく知らないであろうと思われる花嫁の聟としてこの衣裳を着ていた。それはあたかも古い腐った棺桶に金鍍金《きんめっき》をして、新しい灰色の総《ふさ》で飾られたようなものであった。華やかな服装をした皇帝の使臣たちは、ラザルスのうしろから結婚式の行列のように騎馬でつづくと、その先頭では高らかに喇叭を吹き鳴らして、皇帝の使臣のために道を開くように人々に告げ知らせた。しかしラザルスの行く手には誰も立つ者はなかった。彼の生地では、この奇蹟的によみがえった彼の増悪すべき名前を呪っていたので、人々は恐ろしい彼が通るということを知って、みな散りぢりに逃げ出した。真鍮の金属性の音はいたずらに静かな大空にひびいて、荒野のあなたに谺《こだま》していた。ラザルスは海路を行った。
彼の乗船は非常に豪奢に装飾されていたにも拘らず、かつて地中海の瑠璃色の波に映った船のうちでは最も悼ましい船であった。他の客も大勢乗合わせていたが、寂寞として墓のごとく、傲然とそり返っている船首を叩く波の音は絶望にむせび泣いているようであった。ラザルスは他の人々から離れて、太陽にその顔を向けながら、さざなみの呟きを静かに傾聴していた。水夫や使臣たちは遥か向うで、ぼんやりとした影のように一団をなしていた。もしも雷《らい》が鳴り出して、赤い帆に暴風が吹き付けたらば、船はきっと覆《くつがえ》ってしまったかも知れない程に、船上の人間たちは、生のために戦う意志もなく、ただ全くぽかん[#「ぽかん」に傍点]としていた。そのうちに、ようようのことで二、三人の水夫が船べりへ出て来て、海の洞《ほら》にひらめく水神の淡紅色の肩か、楯を持った酔いどれの人馬が波を蹴立てて船と競走するのかを見るような気で、透き通る紺碧の海を熱心に見つめた。しかも深い海は依然として荒野の如く、唖のごとくに静まり返っていた。
ラザルスはまったく無頓着に、永遠の都のローマに上陸した。人間の富や、荘厳無比の宮殿を持つローマは、あたかも巨人によって建設されたようなものであったが、ラザルスに取ってはそのまばゆさも、美しさも、洗練された人生の音楽も、結局荒野の風の谺か、沙漠の流砂の響きとしか聞こえなかった。戦車は走り、永劫の都の建設者や協力者の群れは傲然として巷《ちまた》を行き、歌は唄われ、噴水や女は玉のごとくに笑い、酔える哲学者が大道に演説すれば、素面の男は微笑をうかべて聴き、馬の蹄は石の鋪道を蹴立てて走っている。それらの中を一人の頑丈な、陰鬱な大男が沈黙と絶望の冷やかな足取りで歩きながら、こうした人々の心に不快と、忿怒《ふんぬ》と、なんとはなしに悩ましげな倦怠とを播《ま》いて行った。ローマに於いてすら、なお悲痛な顔をしているこのラザルスを見た市民は、驚異の感に打たれて眉をひそめた。二日の後にローマ全市は、彼が奇蹟的によみがえったラザルスであることを知るや、恐れて彼を遠ざけるようになった。
その中には又、自分たちの胆力を試してみようという勇気のある人たちもあらわれて来た。そういう時には、ラザルスはいつも素直に無礼なかれらの招きに応じた。皇帝アウガスタスは国事に追われて、彼を召すのがだんだんに延びていたので、ラザルスは七日のあいだ、他の人々のところへ招かれて行った。
ラザルスが一人の享楽主義者の邸へ招かれたとき、主人公は大いに笑いながら彼を迎えた。
「さあ、一杯やれ、ラザルス君。お前が酒を飲むところを御覧になったら、皇帝も笑わずにはいられまいて。」と、主人は大きい声で言った。
半裸体の酔いどれの女たちはどっと笑って、ラザルスの紫色の手に薔薇の花びらを振りかけた。しかもこの享楽主義者がラザルスの眼をながめたとき、彼の歓楽は永劫に終りをつげてしまった。彼は一滴の酒も口にしないのに、その余生をまったく酔いどれのように送った。そうして、酒がもたらすところの楽しい妄想の代りに、彼は恐ろしい悪夢に絶えずおそわれ、昼夜を分かたずその悪夢の毒気を吸いながら、かの狂暴残忍なローマの先人たちよりも更に物凄い死を遂げた。
ラザルスは又、ある青年と彼の愛人のところへ呼ばれて行った。かれらはたがいに恋の美酒に酔っていたので、その青年はいかにも得意そうに、恋人を固く抱擁しながら、穏かに同情するような口ぶりで言った。
「僕たちを見たまえ、ラザルス君。そうして、僕たちが悦びを一緒に喜んでくれたまえ。この世の中に恋より力強いものがあろうか。」
ラザルスは黙って二人を見た。その以来、この二人の恋人同士は互いに愛し合っていながらも、かれらの心はおのずから楽しまず、さながら荒れ果てた墓地に根をおろしているサイプレスの木が、寥寂たる夕暮れにその頂きを徒らに天へとどかせようとしているかのように、その後半生を陰鬱のうちに
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング