。
空間と暗黒によって掩い包まれている人間は、永遠の恐怖に面して、絶望に顫えおののいているのである。」
しかしラザルスと言葉を交すことを好まない人たちは、更にいろいろのことを言った。そうして、みな無言のうちに死んでいるのであった。
四
この時代に、ローマにアウレリウスという名高い彫刻家がいた。かれは粘土や大理石や青銅に、神や人間の像を彫刻し、人々はそれらの彫刻を不滅の美として称《たた》えていた。しかし彼自身はそれに満足することが出来ず、世には更に美しい何物かが存在しているのであるが、自分はそれを大理石や青銅へ再現することが出来ないのであると主張していた。
「わたしは未だ曾て月の薄い光りを捉えることも出来ず、又は日の光りを思うがままに捉え得なかった。私の大理石には、魂がなく、わたしの美しい青銅には生命がなかった。」と、彼は口癖のように言っていた。そうして、月の晩にはサイプレスの黒い影を踏みながら、彼は自分の白い肉衣を月光にひらめかして見ていたので、道で出逢った彼の親しい人たちは心安立てに笑いながら言った。
「アウレリウスさん。月の光りを集めていなさいますね。なぜ籠《かご》を持ってこなかったのです。」
彼も笑いながら自分の両眼を指さして答えた。
「それ、ここに籠がありますよ。この中へ月光と日光とを入れておくのです。」
実際彼のいう通り、それらの光りは彼の眼のうちで輝いていた。しかし古い貴族出の彼は良い妻や子とともに、物質上にはなに不自由なく暮らしていたが、どうしてもその月光や日光を大理石の上に再現させることが出来ないので、自分の刻んだ作品に絶望を感じながら、怏々《おうおう》として楽しまざる日を送っていた。
ラザルスの噂がこの彫刻家の耳にはいった時、彼は妻や友達と相談した上で、死から奇蹟的によみがえった彼に逢うためにユダヤへの長い旅についた。アウレリウスは近頃どことなく疲れ切っているので、この旅行が自分の鈍《にぶ》りかかった神経を鋭くしてくれれば好いがと思ったくらいであったから、ラザルスに付いてのどんな噂にも、彼は驚かなかった。元来、彼自身も死ということについては度々熟考し、あながちそれを好む者ではなかったが、さりとて生を愛着するの余りに、人の物笑いになるような死にざまをする人たちを侮蔑していた。
[#ここから2字下げ]
この世に於いて、人生は美し。
あの世に於いて、死は謎なり。
[#ここで字下げ終わり]
彼はこう思っていたのである。人間にとって、人生を楽しむと、すべての生きとし生けるものの美に法悦するほど好いことはない。そこで、彼は自分の独自の人生観の真理をラザルスに説得して、その魂をもよみがえらせることに自信ある希望を持っていた。この希望はあながち至難の事ではなさそうであった。すなわちこの解釈し難い異様な噂は、ラザルスについて本当のことを物語っているのではなく、ただ漠然と、ある恐怖に対する警告をなしているに過ぎなかったからであった。
ラザルスはあたかも荒野に沈みかかっている太陽を追おうとして、石の上から起ち上がった時、一人の立派なローマ人がひとりの武装した奴隷に護られながら彼に近づいて来て、朗かな声で呼びかけた。
「ラザルスよ。」
美しい着物や宝石を身に付けたラザルスは、その荘厳な夕日を浴びた深刻な顔をあげた。真っ赤な夕日の光りがローマ人の素顔や頭をも銅の人像のように照り輝かしているのに、ラザルスも気が付いた。すると、彼は素直に再び元の場所にかえって、その弱々しい両眼を伏せた。
「なるほど、お前さんは醜《みにく》い。可哀そうなラザルスさん。そうして又、お前さんは物凄いですね。死というものは、お前さんがふとしたおりに彼の手に落ちた日だけその手を休めてはいませんでした。しかしお前さんは実に頑丈ですね。一体あの偉大なるシーザーが言ったように、肥った人間には悪意などのあるものではありません。それであるから、なぜ人々がお前さんをそんなに恐れているのか、私には判らないのです。どうでしょう、今夜わたしをお前さんの家へ泊めてくれませんか。もう日が暮れて、私には泊まる処がないのですが……。」と、そのローマ人は金色の鎖をいじりながら静かに言った。
今までに誰ひとりとして、ラザルスを宿のあるじと頼もうとした者はなかった。
「わたしには寝床がありません。」と、ラザルスは言った。
「私はこれでも武士の端くれであったから、坐っていても眠られます。ただ私たちは火さえあれば結構です。」と、ローマ人は答えた。
「わたしの家《うち》には火もありません。」
「それでは、暗やみのなかで、友達のように語り明かしましょう。酒のひと壜ぐらいはお持ちでしょうから。」
「わたしには酒もありません。」
ローマ人は笑った。
「なるほど、やっと私にも判り
前へ
次へ
全11ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング