込んで気違いのようになって物を螫《さ》したがっている時にでも、ラザルスは太陽のひかりを浴びたまま坐って動かず、灌木のような異様な髯の生えている紫色の顔を仰向けて、熱湯のような日光の流れに身をひたしていた。
世間の人がまだ彼に言葉をかけていた頃、彼は一度こんな風に訊ねられた事があった。
「ラザルス君、気の毒だな。そんなことをしてお天道《てんとう》さまと睨みっくらをしていると、こころもちが好いかね。」
彼は答えた。
「むむ、そうだ。」
ラザルスに言葉をかけた人たちの心では、あの三日間の死の常闇《とこやみ》が余りにも深刻であったので、この地上の熱や光りではとても温めることも出来ず、また彼の眼に沁み込んだ、その常闇を払い退けることが出来ないのだと思って、やれやれと溜め息をつきながら行ってしまうのであった。
爛々たる太陽が沈みかけると、ラザルスは荒野の方へ出かけて、まるで一生懸命になって太陽に達しようとでもしているように、夕日にむかって一直線に歩いて行った。彼は常に太陽にむかって真っ直ぐに歩いてゆくのである。そこで、夜になって荒野で何をするのであろうと、そのあとからそっと付いて来た人たちの心には、大きな落陽の真っ赤な夕映を背景にした、大男の黒い影法師がこびり付いて来る上に、暗い夜がだんだんに恐怖と共に迫って来るので、恐ろしさの余りに初めの意気組などはどこへやらで、這々《ほうほう》のていで逃げ帰ってしまった。したがって、彼が荒野で何をしていたか判らなかったが、かれらはその黒や赤の幻影を死ぬまで頭のなかに焼き付けられて、あたかも眼に刺《とげ》をさされた獣が足の先きで夢中に鼻面をこするように、ばかばかしいほど夢中になって眼をこすってみても、ラザルスの怖ろしい幻影はどうしても拭い去ることが出来なかった。
しかし遥かに遠いところに住んでいて、噂を聞くだけで本人を見たことのない人たちは、怖い物見たさの向う見ずの好奇心に駆られて、日光を浴びて坐っているラザルスの所へわざわざ尋ねて来て話しかけるのもあった。そういう時には、ラザルスの顔はいくらか柔和になって、割合いに物凄くなくなって来るのである。こうした第一印象を受けた人には、この聖都の人々はなんという馬鹿ばかり揃っているのであろうと軽蔑するが、さて少しばかり話をして家路につくと、すぐに聖都の人たちはかれらを見付けてこう言うのである。
「見ろよ。あすこへ行く連中は、ラザルスにお眼を止められたくらいだから、おれ達よりも上手《うわて》の馬鹿者に違いないぜ。」
かれらは気の毒そうに首を振りながら、腕をあげて、帰る人々に挨拶した。
ラザルスの家へは、大胆不敵の勇士が物凄い武器を持ったり、苦労を知らない青年たちが笑ったり歌を唄ったりして来た。笏杖《しゃくじょう》を持った僧侶や、金をじゃら付かせている忙がしそうな商人たちも来た。しかもみな帰る時にはまるで違った人のようになっていた。それらの人たちの心には一様に恐ろしい影が飛びかかって来て、見馴れた古い世界に一つの新しい現象をあたえた。
なおラザルスと話してみたいと思っていた人たちは、こう言って自己の感想を説明していた。
「すべて手に触れ、眼に見える物体は漸次に空虚な、軽い、透明なものに化するもので、謂わば夜の闇に光る影のようなものである。この全宇宙を支持する偉大なる暗黒は、太陽や、月や、星によって駆逐さるることなく、一つの永遠の墓衣のように地球を包み、一人の母のごとくに地球を抱き締めているのである。
その暗黒がすべての物体、鉄や石の中までも沁み込むと、すべての物体の分子は互いの連絡がゆるんで来て、遂には離れ離れになる。そうして又、その暗黒が更に分子の奥底へ沁み込むと、今度は原子が分離して行く。なんとなれば、この宇宙を取り巻いているところの偉大なる空間は、眼に見えるものによって満たされるものでもなく、また太陽や、月や、星に依っても満たされるものでもない。それは何物にも束縛されずに、あらゆるところに沁み込んで、物体から分子を、分子から原子を分裂させて行くのである。
この空間に於いては、空虚なる樹木は倒れはしまいかという杞憂《きゆう》のために、空虚なる根を張っている。寺院も、宮殿も、馬も実在しているが、みな空虚である。人間もこの空間のうちに絶えず動いているが、かれらもまた軽く、空虚なること影の如くである。
なんとなれば、時は虚無であって、すべての物体には始めと同時に終りが接しているのである。建設はなお行なわれているけれども、それと同時に建設者はそれを槌で打ち砕いて行き、次から次へと廃墟となって、再び元の空虚となる。今なお人間は生まれて来るが、それと同時に絶えず葬式の蝋燭は人間の頭上にかがやき、虚無に還元して、その人間と葬式の蝋燭の代りに空間が存在する
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