送ることとなった。不思議な人生の力に駆られて互いに抱擁し合っても、その接吻《キッス》にはにがい涙があり、その逸楽には苦痛がまじるので、この若い二人は、自分たちはたしかに人生に従順なる奴隷であり、沈黙と虚無の忍耐強い召使いであると思うようになった。常に和合するかと思えば、また夫婦喧嘩をして、かれらは火花の如くに輝き、火花のごとくに常闇《とこやみ》の世界へと消えて行った。
ラザルスは更に又、ある高慢なる賢人の邸へ招かれた。
「わたしはお前が顕わすような恐怖ならば、みな知っている。お前はこのわたしを恐れさせるような事が出来るかな。」と、その賢人は言った。
しかもその賢人は、恐怖の知識というものは恐怖そのものではなく、死の幻影は死そのものではない事をすぐに知った。また賢こさと愚かさとは無限の前には同一である事、何となればそれらの区別はただ人間が勝手に決めたのであって、無限には賢こさも愚かさもないことを識った。したがって、有智と無智、真理と虚説、高貴と卑賤とのあいだの犯すべからざる境界線は消え失せて、ただ無形の思想が空間にただよっているばかりとなってしまった。そこで、その賢人は白髪《しらが》の頭を掴んで、狂気のように叫んだ。
「わたしには判らない。私には考える力がない。」
こうして、この奇蹟的によみがえった男を、ひと目見ただけで、人生の意義と悦楽とはすべて一朝にして滅びてしまうのである。そこで、この男を皇帝に謁見させることは危険であるから、いっそ彼を亡き者にして窃かに埋めて、皇帝にはその行くえ不明になったと申し上げた方がよかろうという意見が提出された。それがために首斬り刀はすでに研《と》がれ、市民の安寧維持をゆだねられた青年たちが首斬り人を用意した時、あたかも皇帝から明日ラザルスを召すという命令が出たので、この残忍な計画は破壊された。
そこで、ラザルスを亡き者にすることが出来ないまでも、せめては彼の顔から受ける恐ろしい印象を和らげる事ぐらいは出来るであろうという意見で、腕のある画家や、理髪師や、芸術家らを招いて、徹夜の大急ぎでラザルスの髭を刈って巻くやら、絵具でその顔や手の死びと色の斑点を塗り隠すやら、種々の細工が施された。今までの顔に深いみぞを刻んでいた苦悩の皺は、人々に嫌悪の情を起こさせるというので、それもみな塗りつぶされて、そのあとは温良な笑いと快活さとを巧妙な
前へ
次へ
全21ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング