いた線は一つもなく、しかも何か新らしい、変わった観念の暗示をあたえていた。細い曲がった一本の小枝、と言うよりはむしろ小枝に似たある不格好な細長い物体の上に、一人の――まるで形式を無視した、醜《みにく》い盲人が斜めに身を支えている。その人物たるや、まったく歪《ゆが》んだ、なにかの塊《かたまり》を引き延ばしたとも、或いはたがいに離れようとして徒らに力なくもがいている粗野な断片の集まりとも見えた。唯どう考えても偶然としか思えないのは、この粗野な断片の一つのもとに、一羽の蝶が真に迫って彫ってあって、その透き通るような翼を持った快活な愛らしさ、鋭敏さ、美しさは、まさに飛躍せんとする抑え難き本能に顫えているようであった。
「この見事な蝶はなんのためなんだね、アウレリウス。」と、誰かが躊躇しながら言った。
「おれは知らない。」と、アウレリウスは答えた。
結局、アウレリウスから本心を聞かされないので、彼を一番愛していた友達の一人が断乎として言った。
「これは醜悪だよ、君。壊してしまわなければいかん。槌を貸したまえ。」
その友達は槌でふた撃ち、この怪奇なる盲人を微塵に砕いてしまって、生きているような蝶だけをそのままに残して置いた。
以来、アウレリウスは創作を絶って、大理石にも、青銅にも、また永遠の美の宿っていた彼の霊妙なる作品にも、まったく見向きもしなくなった。彼の友達らは彼に以前のような仕事に対する熱情を喚起させようというので、彼を連れ出して、他の巨匠の作品を見せたりしたが、依然として無関心なるアウレリウスは微笑《ほほえ》みながら口をつぐんで、美に就いてのかれらのお談議に耳を傾けてから、いつも疲れた気のなさそうな声で答えた。
「だが、それはみな嘘だ。」
太陽のかがやいている日には、彼は自分の壮大な見事な庭園へ出て、日影のない場所を見つけて、太陽のほうへ顔を向けた。赤や白の蝶が舞いめぐって、酒機嫌の|酒森の神《キテイール》のゆがんだ唇からは、水が虹を立てながら大理石の池へ落ちていた。しかしアウレリウスは身動《みじろ》ぎもせずにすわっていた。ずっと遠い、石ばかりの荒野の入口で、熾烈の太陽に直射されながら坐っていたあのラザルスのように――。
五
神聖なるローマ大帝アウガスタス自身がラザルスを召されることになった。皇帝の使臣たちは、婚礼の儀式へ臨むような荘厳な花聟の衣裳を
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