赤い鼻とまっかな頬鬚がどっちとも気に入ったのである。
「下の寝台の百五号だ」と、大西洋を航海することは、下町《したまち》のデルモニコ酒場でウィスキーやカクテルの話をするくらいにしか考えていない人間たち特有の事務的の口調で、僕は言った。
 給仕は僕の旅行鞄と外套と、それから毛布を受け取った。僕はそのときの彼の顔の表情を忘れろと言っても、おそらく忘れられないであろう。むろん、かれは顔色を変えたのではない。奇蹟ですら自然の常軌を変えることは出来ないと、著名な神学者連も保証しているのであるから、僕も彼が顔色を真っ蒼にしたのではないというのにあえて躊躇《ちゅうちょ》しないが、しかしその表情から見て、彼が危うく涙を流しそうにしたのか、噴嚔《くさめ》をしそこなったのか、それとも僕の旅行鞄を取り落とそうとしたのか、なにしろはっ[#「はっ」に傍点]としたことだけは事実であった。その旅行鞄には、僕の古い友達のスニッギンソン・バン・ピッキンスから餞別《せんべつ》にもらった上等のシェリー酒が二壜はいっていたので、僕もいささか冷やりとしたが、給仕は涙も流さず、くさめもせず、旅行鞄を取り落とさなかった。
「では、
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