言葉に耳を傾けるのを中止しなければならなかった。
 もう一度、わたしは疲れた足を引き摺りながら尼寺の坂道を登って、平坦な道へ出た。そこからキッティと例の男とは馬をゆるやかに走らせたので、私はウェッシントン夫人と二人ぎりになった。
「アグネス」と、私は言った。「幌《ほろ》をうしろへ落としたらどうです。そうして、こうやって始終人力車に乗って私につきまとうのは、いったいどういうわけだか話してください」
 幌は音もなく落ちて、わたしは死んで埋められた夫人と顔を突き合わせた。
 彼女はわたしが生前に見た着物を着て、右の手にいつもの小さいハンカチーフを持ち、左の手にやはりいつもの名刺入れを持っていた。(ある婦人が八ヵ月前に名刺入れを持って死んだことがあった。)さあ、こうなって来ると、わたしは現在と過去との区別がつきかねたので、また少なくとも自分は気が狂っていないということをたしかめるために、路ばたの石の欄干の上に両手を置いて、掛け算の表をくりかえさなければならなかった。
「アグネス」と、わたしはくりかえした。「どうか私にそのわけを話してください」
 ウェッシントン夫人は前かがみになると、いつもの癖
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